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2024年4月18日練習

 

今日はシャイトの「ベルガマスカ」を練習しました。 作曲者のSamuel Scheidt (1587-1653)はドイツ初期バロックの偉大な作曲家「3S」(シャイン、シャイト、シュッツ)の一人で有名な大バッハ(J.S.Bach)より100年ほど昔の作曲家です。

この曲は2分の2拍子で始まり、2小節のテーマが各パートに引き継がれて繰り返されて、4分の6拍子(3連符2拍子)に変わり、最後は元の拍子に戻ってきます。 

細かい動きもある勇壮で激しい変奏曲です。 最初から最後まで大きな2拍子に乗って、急がずに、転げずにちゃんとできるといいなあ。本番まで練習頑張りましょう。

ところで「ベルガマスカ」という曲で私が知っているのは、ウッチェリーニの通奏低音付き2重奏ですが、このテーマは全然違います。 ドビュッシーのベルガマスカ組曲の「月の光」も有名な曲ですが、このテーマも違います。

「ベルガマスカ」って何?と思ってしまいます。どなたか知っていたら教えてください。 (SK)

 

2024年3月21日練習

音作り、スケール、アルトリコーダーのエチュード、いつものメニューをこなして、アンサンブルのレッスンは今日から新曲のHeinrich Isaacの「A la Bataglia」が始まりました。
さて、ここでクイズです。
( )の中に当てはまる言葉を選びましょう。

 

ハインリヒ・イザークはフランドル地方に生まれ、

(①ヴェネツィア、②ローマ ③フィレンツェ ④ミラノ )でロレンツォ・デ・メディチに仕えた。

また、音楽愛好家として知られ様々な楽器からなる宮廷楽団を持っていた神聖ローマ帝国皇帝

(①フリードリヒ ②マクシミリアン ③フランツ ④ミノール)の宮廷に仕えた。
国際的に活躍したイザークはミサ曲やモテットといった宗教曲の他に、世俗曲も多く残し、フランス語、ドイツ語、イタリア語による歌を作曲しているが、ドイツ語の
(①『インスブルックよ、さようなら』 ②『インスブルックよ、こんにちは』 ③『悲しみよ、こんにちは』

④『Ich bin Mino』)が特に有名である。

「A la Bataglia」はイザークが1487年サルツァネッロ要塞をめぐるジェノヴァとフィレンツェの戦いを記念して作曲した、という記述をネット上に発見したのですが、作曲年と作曲の目的については議論の余地があるようです。
イザークについて調べてみると「サンタマリア・デル・フィオーレ教会で歌っていた」、「メディチ家に呼ばれ」、「皇帝に仕官し」、と華やかできらびやかな経歴が次々浮かび上がってきます。なんて羨ましい素晴らしい経歴でしょう。
イザークは音楽家としてはかなりの成功者だったのですね。(IM)

 

 

2023年7月20日  みなとリコ団員紹介「団員に聞きました③」

 

リコーダーは好きだけど、他にも好きなことありますから。

リコーダーより得意なこともありますから。

それって何?自慢できること?もしかして師範級?教えてくださいな。

みなとリコはいろんな個性の集まり。誰にも言ってない秘密の趣味が実はあるの、、、。

 

「リコーダー以外の趣味、リコーダー以外にハマっていることについて教えてください」

 

・フルート:社会人になってから始めて40年続けてます。音域が広くて、

ダイナミックス広くて、運指は簡単だけど、音色作りや音の切れは少し難しい。

のびやかで歌いやすいので好きです。

チェロ(40才頃で始めて休み休み25年)ヴィオラ・ダ・ガンバ(50才頃始めて

もう15年くらい)どちらも通奏低音がやりたくて始めました。優しいガンバと

力強いチェロどちらも低音が心地良いです。

 読書、楽譜集め、合奏譜作り(SK)

 

・はまっているのは、家庭菜園です。菜園の話をすると際限がありません。今は

アスパラガスが出始めました。エンドウ豆のお花もぼちぼち咲きだしています。

ジャガイモの芽が出始めました。ふきも出てきています。

冬野菜を終え夏野菜の苗を植える準備で忙しいです。

白菜は虫たちの食堂となり、今はお花畑になりました。

どこが楽しいか・・・季節とともに生きるところです。

あとは大学生のときからフルートをやっています。邪魔をしないように合奏を

たのしんでいます。Kさんと同じアンサンブルグループで楽しんでいます。

なかなかやる時間がないのですが・・・ミニチュアを作るのも好きです。(SS)

 

・今のところ リコーダーのみです。 

(楽譜に慣れ、演奏のスキルアップをしたいです)(MM)

 

・太極拳

私は武道の方でなく、ゆっくり深い呼吸とゆったり流れる音楽にのって24式の

演舞をしてます。脳トレにもなり、太極拳を始めて10年目になりました。

あっという間に指導員にまでなりましたが、まだまだ教わる事が多く今後も精進

しようと思います。皆様にもお勧めします。(IJ)

 

・刺しゅう 映画・絵画鑑賞 読書(KK)

 

・旅行 見たこともない景色や珍しい食べ物、現地の人とのふれ合いが楽しみ。

きっかけは学生時代、旅好き仲間との出会い。よく現地集合旅を

(例えば石川県の○○駅に8月1日昼集合、行き方は各自自由)楽しんだ。 

車で他県を巡りながら来る人や夜行列車で来る人さまざま。

わたしは電車乗り継ぎ派でその頃は時刻表がバイブル。(平和な昭和時代)

 のんびり屋だけど旅行パッキングは早いかも。(SS)

 

・①美味しいモノを食べること (#^.^#)  ②ピアノ ・・・ は、弾くのも聴くのも大好きです。習い事でやってた限りですけど、あるとすぐ触りたくなっちゃいます。厚かましくも 川崎と関内の駅    ピアノでストリート演奏デビュー済み(笑) ③英会話...?? 旅先で現地の方々と楽しくおしゃべりしたいな、が、若~い頃からの夢デス。 学びのトライは懲りずに色々と!コロナ前にはフィリピンのスパルタ学校に1W留学~しかしながらその束の間の唯一の収穫も、カッコいい先生に出会えたこと…だけだったかな(*´ω`*)帰国後その先生とオンラインレッスンを続けるも…流暢な英語トークは夢のまだまだ先のお話です( ;∀;)(UM)

 

・ピアノ、猫の額程の庭のガーデニング(KT)

 

・野球観戦 やっとルールがわかり始めたレベルですが、息子が中学で野球を始めてから応援をするようになりました。暑くても寒くても週末は県内の球場や高校のグラウンドを巡り応援しています。(NS)

 

・洋裁、手芸など。ただし、なかなか完成しません。(HA)

 

・①ゴルフ コロナの頃からハマりはじめました。芝生の上を歩くのが気持ちいいのと

年代を超えてできるところが魅力です。

②料理 苦手すぎて料理教室に通いました。 プロにならって作った料理の試食と

おしゃべりが楽しくてコロナになるまで10年以上通いつめました。 現在はYouTubeやインスタを見ていろいろ作るのを楽しんでいます。(IN)

 

・趣味とは違うのですが、太極拳。 武術の一つで型をなかなか覚えられないのですが、

心地よい疲れがあって不思議と続けられています。(TY)

 

・書道 文字を書くことが少なくなり、このままだと書けなくなりそうな気がして始めました。白と黒の世界ですがその間に無数の色がありました。奥深い世界です。

 園芸 おもに宿根草と低木を育てています。小さな変化が毎日起きて飽きません。(YI)

 

・最近は、孫と全力で遊ぶための体力づくりとおもちゃ作りをしています。特に、

カバのイラストを練習中です。美術館に行くこと、庭園散歩をすることも好きです。(NM)

 

・書道が苦手で祝儀袋に名前を書くのさえできれば避けたい私ですが、カリグラフィーを習い横文字ならば少し書けるようになりました。好きな書体はゴシックをやわらかくしたようなフラクチャー体です。(だから、何?とつっこまないでください)

カリグラフィーの前はトールペイントにハマり、家中に木製の小物が増殖しました。外出自粛の間、家に残っていた木製品にペイント活動を復活しましたが現在またまた休止中。花より景色を描くのが好み。(だから?、、、)

中学、高校のクラブ、大学の合唱団、名古屋転勤中のPTAコーラス、とあちこちで歌ってきた合唱、長い道のりの末たどり着いたのは、計量記譜の大きなコワイアブックを囲んでルネサンスのポリフォニーを歌うヴォーカルアンサンブル。各パート2、3人の小人数です。ここで歌うのはとても気持ちよく楽しい。体と声のバランスを整え、他パートの音を聞き、アンサンブルしていく、という当たり前のことが現代譜から離れることでようやくわかってきました。難しいけれど楽しい。楽しいけれど簡単ではない。だから続くのかな。他のメンバーの足手纏いにならぬよう精進しよう。

何をやっても数年続けると熱が冷めてくるので、長々と続いているリコーダーと

ヴォーカルアンサンブルは本当の趣味といえるかもしれません。(IM)

 

・トレーニングルームでストレッチポールを使った体操やストレッチの指導をしていただいたり近くのヨガ教室に参加したりして体力低下防止に力を入れるようになりました。(KS)

 

・何かが趣味になるキッカケは、仕事上必要に迫られてプロの指導を受けることが多く、魅力いっぱいでひきつけられることです。ですから多趣味になりがちでしたねえ。でも時間もなく自然消滅していくんですね。

* 焼き物。お皿はひびが入り壺は水漏れ等粗大ごみの山に。そして庭の片隅に。

残っているのは、花器2点、30㎝くらいの壺、七宝焼きイヤリング。紙粘土の人形3体。     

* ソフトテニス。体力つくりとばかりに地域のソフトテニス部に入会。練習には

いつも2人の子を連れて。疲れた体で練習、もっと疲れて。それでもクラブ対抗で

3位の盾を頂いた現在まで続いている趣味。

* フラワーアレンジメント。藤沢、横浜、池袋、銀座の教室に通って免許を取得。

晴れてフラワーデザイナーに。

先生の一言「単なるフラワーデザイナーなら毎月毎月はいて捨てるほど産まれている。要らない。」と。ならばとウエディングフラワーデザイナー、ブライダルコンサルタント1級。を取得。ロビーを飾ったり、同窓会のテーブルフラワーを作らせてもらったりと楽しんだ。長男の結婚式がウエディングの研修中に浮上。横浜のホテルで、このホテルの式場は、手作りを推奨していて全てをホテルに頼むか、作って持ち込むかどちらかでした。二人は手作りを選んだので先生の後押しで会場のお花は全て私が作ることになった。こんなに嬉しいことはなかった。親子でビックリ大喜び。12月24日当日、会場全体が、花の甘い香りで溢れ出席者の「きれい!素敵!」。は私を喜ばせるに十分だった。お花は全てお土産に!で奪い合いでした。お見せしたい!くらい。 今は家の中を飾る程度ですが、明るく豊かな生活気分にさせてくれるお花は大好きです。(OY)

 

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リコーダーの予習だけで大変なのに、他にもこんなに色々楽しむ余裕があるなんて、、、。いつも優雅なあの方が太極拳!ゴルフ!洋裁、英会話、野球、旅行、ジャンルが広い!庭にはお花が咲き乱れ、自家製の野菜でプロ直伝の一皿もできそう。ウエディングパーティーのお花も飾れます!ガンバ、リコーダー、フルートを一人で演奏って古楽の山下達郎?かと思えばリコーダー一筋の求道者も、、、。みなとリコ団員、おぬしらただモノでは無いな。

 

誰に命令されたわけでもないし、やらなければ生活に困るわけでもない。限られた時間を何とかやりくりしてでも続けていく「趣味」って面白いです。下手でもいい、迷惑でもいい、とにかくできるところまでやろう!と思いませんか?

忙しい皆様、それでもリコーダーは続けてね。

2023年6月18日 みなとリコ団員紹介「団員に聞きました②」

 

ポイントを貯めてお得な生活を追求する「ポイ活」、好きなアイドルやアーティストを全力で応援する「推し活」、これから先の残りの人生の予定を整える「終活」など「〜活」が流行る今日この頃ですが、皆様の「リコ活」は順調でしょうか。

さてさてあなたの「リコ活」はいつどこで始まったのか。あなたとリコーダーはどこで出会ってこんなに親密になったのか。そんなことを今回もまたみなとリコ団員に聞いてみました。

 

「リコーダーとの出会いを教えてください」

 

・リコーダーは小学校10歳で吹いて以降、小、中、高校時代には自宅で耳コピ独習。18歳大学サークルで「古楽研究会」なるところに入り、楽譜を読むこと&合奏の楽しさを知りました。28歳社会人3年目で始めたフルートのS先生がリコーダーも好きで、先生が指導していた小編成のリコーダーグループに入りました。 S先生は36年前にご逝去されましたが、その後も同グループでのリコーダーアンサンブルを続けています。

ルネサンス、バロック音楽の個人レッスンを現在はO先生に習ってます。目からうろこのレッスンで楽しい。でもおさらい会前は苦しい。

  2021年の現役退任を機に、はれて吉澤先生の平日昼間の大人数リコーダーオケに入団

できました。

ジャンルは関係なく、きれいな曲、楽しい曲、泣ける曲、手こずる曲、乗れる曲、

みんな好きです。

リコーダーは57年間いつも一番身近にいる相棒楽器です。(SK)

 

・学校ではソプラノリコーダーだけを習いました。ひょんなことから今から7年くらい

前にアルトリコーダーを始めました。

今はO先生に習っています。伸びしろだけは、だれにも負けません!!

リコーダーのぬくもりのある音が好きです。練習し始めたころ音に癒されてよく

眠りそうになりリコーダーを落としそうになりました。Kさんと同じアンサンブル

グループで楽しんでいます。(SS)

 

・リコーダーとの出会いは、小学校の音楽授業です。(MM)

 

・小学校の音楽でソプラノリコーダーを触った以来です。ピアノなど楽器経験が無くて

リコーダーなら出来るかな?と、失礼ながら母が認知症になりショックで自分の

老後を考え手先を動かす事をしなければと思い、NHKカルチャーの前半コースに

入門しました。 恥ずかしながら、吉澤先生の事も存じ上げず何となく

始めましたが、先生のお人柄も楽しくてその頃は簡単な曲でのアンサンブルだった

のでもう少しレベルアップ?と図々しくも後半クラスに引っ越ししました。

そこから苦労の始まり。リコーダーに対しての無知さ、他の方のレベルの高さ、自分が基本を全く出来てなかった事などなどで今現在も皆さまについていくのに大変です。

日々練習にもがんばり、少しずつですが皆さんの中に混ざってアンサンブルで曲を

終えた時の達成感は嬉しいばかりです。また音楽の素晴らしさも教わりました♪(IJ)

 

・やはり小学校3年生の時のアマリリスが最初で結婚後夫のフルートに合わせるのに

アルトリコーダーを勧められて 自己流で少し、すぐに挫折しました。

以来の60にしてのNHK初心者クラス参加です。(KK)

 

・リコーダーとの出会いは幼稚園。園長先生の教育方針が音楽必須だったらしい。

  その後小学校の授業の一環で吹いて以来特にリコーダーにかかわることなかった。

  年を重ね少しは文化的な趣味もあるといいなという思いから昔好きだった

リコーダーをまた吹いてみたいと教室を訪ね今日に至る。(SS)

 

・アルト笛を勉強したいと思っていた所以前からファンだった吉澤先生の、お教室が横浜にあることを知り迷わず入会しました。本当にラッキーでした!(TJ)

 

・最初の出会いは やはり小学校で プラのソプラノリコーダー、中学校でアルト

リコーダー。3人の子供達もそれぞれ学校でリコーダーの授業があり、家には何本

ものリコーダーがゴロゴロ~。

アンサンブルの素晴らしさを知ったのは、 「アムステルダム ルッキー スターダストカルテット」と「小学生」のコラボ演奏を聴いた時です。

20年程前に港南区ひまわりの郷で、小学生3.4年生向けにリコーダーワークショップがありました。子供達が3ヶ月間にわたり、吉澤先生のご指導を受け、最終日にプロのリコーダー奏者と共演するといった企画でした。当時 9歳だった娘が参加したので、毎回付き添っていたところ、本人より私の方がリコーダーの音色やアンサンブルの楽しさに魅了されました。 吉澤先生の優しいお人柄にも。   それから月日は経てども、

恋しい思いは忘れられず・・・そんな時に「杉劇リコーダーず」の存在を知り、

即入団。 (定年退職のグッドタイミングでした♬)(UM)

 

・小学校3年の時にアウロスの白いソプラノリコーダーを手にしたのが最初です。

アルトは子供の通っていた幼稚園の親のサークルで始めました。ギリギリ30代でした。子供が幼稚園卒園した後、暫くはそのサークルで知り合ったリコーダーのとても上手な友人に色々な事を教えてもらいました。15、6年位。謝礼も払わずに…リコーダーとは付かず離れずの感じで、兎に角〈合わせる〉のが楽しかった時期です。正式に謝礼を払い先生に教えて頂くようになったのは十数年前、杉劇に入ってからです。そこからは大好きなリコーダーに対する悩みも沢山出てきました。(KT)

 

・息子が小学3年生の時に杉劇リコーダーずに入り私も練習を始め8年になります。(NS)

 

・小学校では縦笛。何十年か後に、みなとみらいリコーダー・コンソートの前身NHK

文化センターの教室に参加しました。(HA)

 

・リコーダーは小学生の時にたまたまご縁があって木製のソプラノリコーダーを

買ってもらい、何て素敵な音なんだろうと感じた幸せな思い出がありました。

アラカンで安易な気持ちでやりたくなったのも当時の良い印象があったからだと

思います。(IN)

 

・小学校の音楽の時間です。(YI)

 

・ソプラノは小学生、アルトは中学生の時。数十年後に家に子どものリコーダーを

見つけて始めましたが、リコーダーがこんなに奥深いものだとは知りませんでした。(YM)

 

・リコーダーは、学生の時に吹いていたのと、以前住んでいたところで、息子の

幼稚園ママたちと、ソプラノ、アルト、テナー、バスを持ち寄ってアンサンブルを

していました。(NM)

 

・小学校3年の音楽の授業でリコーダーに出会いました。音楽の先生はひととおり運指を教え、「この曲を吹けるように練習しておくように。テストするぞ~」と教科書に載っていた「わかば」という曲を指差しました。「わかば」にはソプラノリコーダーの最低音ドが3回も出てきて、練習したけれどなかなか音が出ず、テストの時にも打率3割くらいの成功率で、悔しかったことを思い出します。その後5、6年生の2年間音楽クラブという必修クラブで土曜日の3、4時間目はいつもリコーダーデュオで遊んでいました。部員が少なくて大編成の合唱ができず、顧問の先生もいつもご自分の準備室に籠ってらしたので、生徒のみで好き勝手に遊んでいました。

その後大人になって横浜市主催のリコーダー教室に行ってみたり、その講師の先生に

グループレッスンしていただいたりしていたけれど引越しで終了。 また横浜に

帰ってきてNHKカルチャーセンターの吉澤先生クラスに出会い今に至ります。(IM)

 

・50年ほど前ソプラノリコーダーに出会いました。社会人になって少し仕事にも

慣れたころ、初めてアルトリコーダーを吹き始め、3年ほどお教室に通っていましたが、生活環境が変化して40年間ほどリコーダーは押入れの中に入りっぱなしでした。自分の時間が取れるようになったころ吉澤先生の番組「アンサンブルで楽しむリコーダー」を見て、またリコーダーを吹いてみたいと思いました。

そして今に至ります。なかなかいい音が出ないのですが(それに指も動かなくなっています)

時折(珠に) 皆さんの作り出すハーモニーの中に自分の出した音が心地よく

溶け込むとき続けていて、よかった、もう少し頑張ってみようと思います。(KS)

 

・リコーダーとの出会いと変遷についてー(さあ困った~とりあえず研修を受けなくては)と。三年生のリコーダーを教えなければならない。でも私は自己流でソプラノが吹けるだけ。81年夏休み、2泊3日のサマーセミナーで箱根湯本の宿へ向かう。 初めて知った笛の世界。全てに目は点になり、知らない世界に飛び込んでしまったような錯覚を覚えた。アルトがメインでアンサンブルの演奏が中心の研修。研修講座は初級コース。講師の先生は大竹先生。大竹先生との出会いは、ここから始まった。受講生は自己申告で同レベルの組を作り練習に取り組んだ。アルトを吹かねばならなかった。「初めてアルトを吹く人です。聞きましょう」私の手は震えビブラートがかかり心臓が飛び出る思いだった。その夜は眠りについても、いつまでも笛の音が聞こえていた。翌82年セミナーは指導者養成講座で一年間だった。「指導者が、レベルが低いのに教える資格あるの」と。レッスンは個人レッスンよりも厳しいと言う声も。受講生30名が一年後には16名になっていた。私も音大出の友人を失った。新宿まできて「やっぱり私帰る」とくるりと背を向けて去っていった。前半は個人レッスンを兼ね後半はアンサンブルが中心だった。例えば端の人からcを次の人は3度上の音を、次の人は5度下の音をと、いうように。この楽譜は全体に音が高いから明日の練習時間までに3度下げた楽譜を作ってきてください。とか。専門的なことが分からない私はその都度涙が頬を濡らした。教えてもらっていた友人はもういない。分からないから来ているんだからとできる人に何度も何度も聞きに行くしかなかった。それでもやめようとは思わなかったようだ。88年セミナーは八王子セミナーハウスで2泊3日で開催。2日目の夜はパーティでルネッサンスダンスもありもりあがっていた。吉澤先生は軽やかなステップで踊りの輪の中に。体が動くたびに大粒の汗が額から転がり落ちるくらい一生懸命に。先生と手を取って踊ったことも。これが吉澤先生との出会いだった。暫くして藤沢でも夏の研修にリコーダーがあり、藤沢リコーダーアンサンブルが誕生した。これで東京と2か所になった。(OY)

 

 

 

ほとんどの人が小学生の頃リコーダーを吹き始めたのですね。脳が若い時期に始めたことは上達も速く、長続きするのでしょうか。しかし、団員のほとんどが先生より早くリコーダーを吹き始めたってことですか??

このことについて深く考えると悲しくなるのでこれ以上考えないことにしよう。考えると脳が酸素を消費して息が続かなくなるしね!

2023年5月22日 団員紹介「みなとリコ団員に聞きました①」
  私たちみなとみらいリコーダー・コンソートには現在20名の団員がおります。
その多くはこの団体の前身であるNHKカルチャースクールの講座に参加していたメンバーで、そこに新しく数名の参加を得て現在に至っています。 長引くコロナ自粛期間のせいでレッスン後の楽しいランチでのおしゃべりの機会も失われ、団員同士の相互理解の場(単なる雑談や、たわいのないお喋りの時間という事ですが)も奪われてきました。私たちってどんな人たちだったっけ?あなた最近どうしてるの?そういえばあれどうなった?聞きたいことがあってもなかなか聞けない今日この頃、アンケートという形で探ってみたいと思います。
「リコーダーとかけて〇〇と解く、その心は?」
 「すぎた音楽の日々」からの宿題、それは謎かけ。「笑点」は見ていても、自分ではやったことない謎かけ。そこで今回、みなとリコ団員に聞いてみました。日頃使ったことのない脳の領域を駆使して答えを捻り出したメンバーの奮闘ぶりをどうぞご覧ください。果たして座布団をもらえそうな回答はあるのでしょうか?

「リコーダー」とかけて

・「パンダの木登り」と解く
  そのこころは「少し危なっかしい方が可愛げがあってよくウケる」(SK)

・「コーヒーをこぼしたテーブル」と解く
  そのこころは「布巾(腹筋)が必要でしょう」(SS)
 
・「ガラス窓の掃除」と解く
  そのこころは「拭いても拭いても(吹いても吹いても)きれいにならない(鳴らない)」(MM)
 
・「パソコンのキーボード」と解く
  そのこころは「指づかいがとても大事」(MM)
 
・「春の池の中」と解く
  そのこころは「おたまじゃくしが踊ってる♪」(MM)
 
・「掃除機とほうきの用途」と解く
  そのこころは「どちらもスッてハキます」(IJ)
 
・「オセロゲーム」と解く
  そのこころは「誰でも楽しめるけれど奥が深い」(KK)
 
・「大黒様」と解く
  そのこころは「どちらも ふく」(SS)
 
・「吉澤先生」と解く
  そのこころは「どちらも気(木)がいい」(UM)
 
・「ミシュラン星付きのレストランのスープかバリスタが入れたコーヒー」と解く
  そのこころは「深い味わいです」(UM)
 
・「レコーダー」と解く
  そのこころは「どちらも記憶に残ります」(UM)
 
・「雨上がりの虹」と解く
  そのこころは「とってもきれいね(音)!色!!」(UM)
 
・「大きな木」と解く
  そのこころは「どちらも根(音)が大事(KT)
 
・「マスク」と解く
  そのこころは「みんなの中ではずせない」(IN)
 
・「書道の筆」と解く
  そのこころは「小学校ではチャンバラの刀として知られている」(TY)
 
・「四季折々のそよ風」と解く
  そのこころは「いつ吹いても心和むでしょう」(NM)
 
・「酉の市の熊手」と解く
  そのこころは「だんだん大きいやつが欲しくなるでしょう」(IM)
 
・「チコちゃん」と解く
  そのこころは「利口だー」(OY)
 
 リコーダーだけでなく、謎かけにも才能を発揮する団員がいる事がわかりました。
吉澤先生を司会に「みなとリコ大喜利」を開催する日がくるかも。いやいやいや、
いくらなんでもそれは無い。。。と思う。


 

「すぎた音楽の日々」の更新は今回(2023年3月26日)をもって終了とさせていただきます。1年と2ヵ月という短い期間でしたが、拙い文章にお付き合いくださった皆様に心より感謝申し上げます。どうもありがとうございました。
自主運営団体として昨年4月に再スタートした みなとリコ ですが、この1年の間さまざまな課題を乗り越え、どうやら安定した活動ができるようになりました。みなとリコ にご関心をお寄せくださったことにあわせてお礼を申し上げるとともに、いつの日か皆様に私たちの演奏をお聴きいただける機会を楽しみに、日々の練習に励みたいと存じます。遠くない未来に演奏会場でお目にかかることが叶いますよう願っています。ありがとうございました。

2023年3月26日 リコーダーをなぞかけで分析してみると

なぞかけ(謎掛け)という言葉遊びがある。「片想いと掛けて、火事場の纏い(まとい)と解く。その心は、燃えるほどふられる」というあれだ。

(ここに写真がありますが、スマートフォンでご覧の場合は写真がこのページの最下段に

 移動しているのでご注意ください。)

 

「リコーダーと掛けて?」となぞをかけられたらどうだろうか。私なら「俳句と解く」と答えたい。だがその「心」を絶妙の一言にまとめるために必要な語彙やセンスが私には足りない。一言に要約できないので開き直って、その「心」についてじっくり考えてみよう。

 

わずか十七音、しかも季語を入れなければいけないという厳しい制約のもとで心象を表現するのが俳句である。極限まで単純化された道具立てで深遠な世界を創るのは至難の技と言える。単に五七五に言葉を並べるのは簡単だ。日本国憲法の中にも俳句があると言われるくらいだ。日本国憲法第23条「学問の自由は、これを保障する」つまり「がくもんの / じゆうはこれを / ほしょうする」。このように、単に五七五に言葉を並べるだけでは俳句以前の法律条文のような、標語のような、スローガンのような、正体不明のシロモノにしかならない。では、どうすれば標語ではなく川柳でもなく俳句になるのだろうか。その問いに簡潔に答えることはとても難しい。

だが、そのヒントを与えてくれる書物なら知っている。俳句をテーマにした著作は古今数えきれないが、その膨大な俳句関連著作群の中で独特の地位を占めているもののひとつに『俳句 四合目からの出発』という本がある。著者は阿部しょう人(「しょうじん」。「しょう」は竹かんむりに肖)という1900年生まれの俳人。この本の特徴は、初心者の俳句に共通する根深い欠陥を事細かに分析し指摘している点にある。つまりダメ俳句を網羅的に並べ、それぞれの句のどこがどのようにダメなのかを詳細に解説するという、親切というのか、傷口に塩を擦り込むような本である。阿部先生はこの本を書くために約十万の初心俳句を調べたという。頭が下がる。そしてダメ俳句をパターン化して辛辣に命名している。いわく「お涙ちょうだい俳句」「孫まご俳句」「ああして、こうして、どうした俳句」「トンチンカン俳句」「ちまちま俳句」「ナルシス俳句」「うわごと俳句」「分裂症俳句」「芸術家気取り俳句」「サッカリン俳句」とどこまでも手厳しく続く。この中のどこかに属するなら、その句は俳句以前の失敗作ということになる。「「べからず」ばかりでうんざりする」と言わないでこの本をきちんと読んだ読者は、一合目から三合目までを飛ばしていきなり四合目から俳句の山に登ることができるそうだ。しかし、私はこの本を開くたびに憂鬱になり、何度挑戦しても巻末までたどり着けない。私が句作でいくら努力しようとも、どうあがいても、阿部さんの分類によるあまたのダメ俳句が大きな口を開けて四方八方で待ち構えていて、私が絞り出した苦心の作は結局そのどこかの口の真っ暗闇の中に吸い込まれる運命以外にないと思えるからだ。この本の愛読者がいると聞くが、私はとてもそうはなれない。しかし気にはなる厄介な本である。もっとも、阿部先生に共感することもないわけではない。とにかく世の中にはダメ俳句があふれかえっているというご指摘だ。これには誰でも同意するだろう。このコラムの拙い俳句がなによりの証拠である。

 

リコーダーはどうだろうか。他の管楽器と違って単に息を吹き込むだけで誰でも簡単に音を出すことができる。しかし発音が簡単な分、制約が厳しい。音量が小さく、音量の大小の調節が難しく、音域が狭く、音色の変化も困難だ。簡単だが多くの制約がある中で如何にすれば深い音楽表現に到達できるかというのがリコーダー奏者に与えられた課題だ。俳句と比較してさてどうだろう、リコーダーは俳句を連想させるなんてものではない、俳句そのものではないか。

リコーダーという手軽な楽器で好みのジャンルの簡単な音楽を演奏してみたいという欲求を抑えることは難しい。多少努力をすれば、まあまあそれに近いことができた気分になれるかもしれない。その結果、リコーダー奏者は山の裾野で中途半端に満足してしまう。言葉を五七五に並べただけの初心俳句と同じだ。ここで気を抜くと、極限まで機能を制約されたリコーダーで頂上に近づく努力を忘れてしまう。しかし、リコーダーのために丹精込めて作られた音楽をリコーダーの特性を余すところなく生かして格調高く奏でる瞬間の醍醐味を、できることならぜひ味わいたいと誰でも思うはずだ。

もし『リコーダー 四合目からの出発』という本があったらどうだろうか。リコーダーによる数知れぬほどのダメ演奏を網羅し、ひとつひとつの演奏に細かく厳しくダメ出しし、これは「ちまちま演奏」、それは「うわごと演奏」、あれは「サッカリン演奏」に「ナルシス演奏」、どれもこれも音楽以前のデキだ、と指摘する本になる。想像しただけで憂鬱だ。だがやはり怖いもの見たさで手に取ってしまい、あ、これは自分の演奏だ、それも、あれも、全部そうだ、と落ち込むことになるに違いない。だがダメな理由をきちんと理解すればリコーダー山の四合目にいきなり飛んでいける、多分。

 

思うに、リコーダーも俳句も「手軽に誰でも楽しめる」という側面が強調され過ぎていはしないだろうか。すべてが経済的価値に還元されてしまう現代社会ではリコーダーにしろ俳句にしろ、商業主義と無縁の高尚な芸術的存在ですと澄ましているわけにはいかない。当然のことながら宣伝も必要だろう。だが、本来は両方とも極めて難しいジャンルである。気楽に始めるのも悪くはないが、やはり高い目標と覚悟を忘れずに、辛抱強く精進を続けて行かなければならない。そうしてこそ見えてくる、聴こえてくる霊妙な世界があるはずだ。

18世紀のヨーロッパでいったんは永遠の眠りについたはずなのに、図らずも古楽復興運動で20世紀の社会に突然連れてこられたリコーダーに、私を無理やり生き返らせておいてこの演奏はいかがなものか、と慨嘆して欲しくない。ああリバイバルして良かった、生き返った甲斐があった、と喜んでもらいたいではないか。私たちが努力を怠らなければそれは不可能ではない、おそらく。

 

「リコーダーと掛けて俳句と解く。その心は、以上に縷々述べたとおり」ではなぞかけにならない。「片想いと纏い」の意表を突いた、しかも切れ味鋭い洒落の足元にも及ばない。なぞかけは難しい。そう言えば、クラシック音楽に関連するなぞかけで一つ覚えているものがあった。森雅裕さんが1988年に発表した小説『ベートーベンな憂鬱症』に四コママンガとして挿入された次のアヴァンギャルドななぞかけだ。

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                        『ベートーヴェンな憂鬱症』森 雅裕 講談社文庫 1991年より

さて、以上に紹介した「片想いと纏い」や「ベートーベン」をお手本として、読者の皆さんなら「リコーダーと掛けて?」に何と答えるだろうか、そしてその心は?

 

                          花冷えやレガッタ少女の腕白し

2023年3月26日 エレキ・リコーダーに未来はあるか

リコーダーが活躍した18世紀は、社会で徐々に力をつけてきた市民層に音楽が広がり、さまざまな楽器の教則本が出版された時代でもあった。多少なりとも私が知っているのはフルートの教則本だが、1707年にオトテール(Jacques-Martin Hotteterre)が史上初めて出版したフルート教則本はリコーダーやオーボエの章を含めても50ページ程度のものだった。だがオトテールの著作の影響はヨーロッパ中に広がり、その海賊版や盗用版を含めて、さまざまな著者によるフルート教則本が各国で出版された。やがて1752年にはクヴァンツ(Johann Joachim Quantz)が網羅的な内容で300ページを超える大部のフルート教則本を出版し、これがバロック時代のあらゆる楽器の教則本を代表する金字塔の一つとなった。その後、フルートが1キーのトラヴェルソから多鍵式へと移行し、4キーから 5、6、7、8キーと試行錯誤的に増えていくに伴って、教則本もその技術的革新の混乱した受容の状態をそのまま反映することとなる。1792年になるとトロムリッツ(Johann George Tromlitz)の教則本が登場する。トロムリッツは、気難しく理屈っぽいクヴァンツに負けない強い意志と頑固な情熱を持った人のようで、クヴァンツの豊富なアイディアのすべてを網羅的に試した上で、それらを奨励し、修正し、あるいは拒否し、自らの教則本に取り入れた。

こうしてヨーロッパ各地で書かれたさまざまなフルート教則本は、同じテーマ(たとえばフィンガリング、タンギング・シラブル、装飾音など)について互いの見解や主張が異なることが少なくない。それは著者の嗜好や時代、お国ぶりや楽器の相違などを反映した結果であろう。しかし、ほとんどの教則本に共通する教えもある。「単調な演奏を避けよ」との教えはその代表的なものだ。単調さは聴衆の退屈に直結するので、演奏者がそれを恐れる気持ちは実に根強く、たとえば繰り返し現れる音型はその都度音量やアーティキュレーションを変えて演奏しなければならない。この教えは当時の一般的な演奏習慣なので特定の楽器に依存しない。つまりフルートだけでなくリコーダーについても同じことが要請されていた。

 

そこで問題になるのはリコーダーが抱える制約である。他の楽器と違ってリコーダーは音色や音量を変えることができない。そう断定するのが言い過ぎとするなら、とても苦手だと言い換えても良い。だから聴衆を退屈させてしまう単調さを回避することが、他の楽器より格段に難しくなる。このコラムの以前の回でエコー・フルートを紹介したことがある。リコーダーの音量を変化させるために、音量が異なる2本のリコーダーをブリッジで結びつけたり、あるいは1本のリコーダーとして扱えるように合体させたと言われる楽器だ。エコー・フルートは普及に至らず廃れてしまうが、このような工夫をさせるほど、リコーダー奏者にとって音量や音色の変化は大きな懸案事項だったのだと思う。

20世紀ともなると楽器にも科学技術の進展と連動したイノベーションの波が押し寄せてくる。電気の力を借りた楽器の登場である。今や、18世紀からリバイバルしたリコーダーにも電子工学の恩恵がもたらされて新製品が発表されている。Elody、Elefue、Re.corder などがその代表で、これで音量を変化させることができるようになった。もちろん、エコー・フルートのように強弱の2段階切り替えではなく連続的な変化が可能だ。そればかりか、電子的にだがリコーダー以外の音色も出すことも簡単にできる。

Elodyはリコーダー・メーカーの老舗ドイツのモーレンハウエル(Mollenhauer)社の製品で、以下に短い演奏例がある。

https://www.youtube.com/watch?v=S_rkd7wJHsQ

 

Elefue(エレフエ)は台湾(近年は韓国や香港と並んで優秀なリコーダー奏者を輩出している)のメーカが開発したもので、Elodyより低価格だから手軽に試すことができそうだ。

https://www.youtube.com/watch?v=xt4cGTgTQSI

 

イタリア(イタリアの楽器メーカといえば何と言ってもヴァイオリン工房。最近はFazioliのピアノを良く目にするが、超高級ブランドのこのピアノも、大量生産のヤマハやシュタインウェイとは違って工房的な環境で作られていると聞く。リコーダーを作るイタリア企業は珍しいと思う)で開発されたRe.corderはコンセプトがElefueに似ているように見える。

https://www.youtube.com/watch?v=xuWZp4qaF2g

 

余談だが、上のメーカに日本の企業が含まれていないのはやはり気になる。リコーダーの生産量についておそらく日本は世界一の地位を占めている。それなのに、リコーダーと電子工学を結びつけた廉価な楽器市場に日本のメーカが無いのはどうしたことか。ロケットやジェット旅客機のように巨大企業がまなじりを決して開発するものではないにしても、得意分野なのに日本製品がないのは寂しく、つい科学技術や経済における日本の閉塞的状況と結びつけて考えてしまう。

 

話を元に戻そう。ところが、これらのエレキ・リコーダーが現代のリコーダー演奏に福音をもたらしたかというと、そうでもない。クラシック音楽の世界では、こうした楽器が余興的に用いられることはあっても、これで18世紀のリコーダー音楽を表情豊かに演奏しようとする人の話題は聞いたことがない(存在しない?)。どうしてだろうか。18世紀のリコーダー演奏家は苦心の末に2種類のリコーダーを無理やり合体させる涙ぐましい工夫をしているのに、性能的にはそれをはるかに凌駕する楽器を手に入れても、現代のリコーダー演奏家は特段の興味を示さないらしい。

この辺が楽器と奏者と楽曲という三角関係の一筋縄で行かないところだと思う。楽器に固有の制約を乗り越えて、あるいはその制約を逆に生かして演奏することにこそ意味があり、チャレンジに値する課題だと奏者は考える。制約があればこそ緊張感に満ちた演奏ができると言い換えても良い。楽器の性能が向上して何でも簡単に出来てしまったら乗り越えるべき障害が消え、ついでに楽器の限界に挑んだ表現に挑戦するインセンティブも失われてしまうのだろう。エコー・フルートが廃れてしまったのもこうした理由によるのかもしれない。

ベートーヴェンが生きた時代はピアノを始めとして多くの楽器のイノベーションが続いた時代だった。この状況にベートーヴェンは敏感に反応し、楽器のギリギリの性能を引き出そうとした。彼が書いたピアノ・ソナタは当時のピアノの発展の状態を物語っていると言う。フォルテ・ピアノ奏者の川口成彦さんは「ベートーヴェンというのは、モーツァルトやハイドンに比べると、より一層楽器の限界を突破しようとした人なんだなというのを、やはり当時の楽器を弾いてみるとすごく感じます。…「月光」ソナタの第3楽章を当時の楽器で弾くと、もう崖っぷち状態にいるような緊迫感がすごくありますね。もう楽器も壊れるんじゃないかというぐらいのエネルギーがあって…」と話している。同じ曲を現代のグランドピアノで弾けば卓越した性能を持つピアノのおかげで崖っぷち感とは対極の安定感を味わえるだろうが、それと引き替えに決定的に失われてしまうある種の感覚・感動もある。

リコーダーも同様で、音量が小さく、しかも制御が困難で音色の変化も難しいという厳しい制約を奏者はあえて受け入れ、その中で表現の幅を広げ、深みを増す努力をする。そこに生身の人間が行う音楽表現の意義や尊さがあり、電子工学の力を借りて余裕しゃくしゃくでこの限界を突破するというのは心得違いの禁じ手なのだろう。

 

しかしこのことは、技術革新が生む新しい楽器には存在理由がないことを示唆するわけではない。参考になるのは先輩格の電気楽器の人生だが、とりわけエレキ・ギターの歩んだ道は興味深い。かつてギターは電気の力を導入することで小さすぎる音量という課題を克服した。しかし、エレキ・ギターが既存のクラシックのギター音楽の演奏に影響を与えることはほとんどなかった(と思う)。ソロ奏者とオーケストラの双方が音量バランスに細心の注意を払いながらアランフェス協奏曲を演奏する姿が、1本でオーケストラと音量的に互角に渡り合えるエレキ・ギターとオーケストラに置き換えられることはなかった。しかし、その代りエレキ・ギターはまったく新たなギター音楽のジャンルを創造した。今や、ロックやジャズではエレキ・ギターはクラシック・オーケストラのヴァイオリンに相当する勢力を誇り、エレキ・ギター無しのロックやジャズは考えられない。

ギターの歴史に学ぶなら、エレキ・リコーダーがその本領を発揮するとすれば、それは既存のレパートリーである18世紀のリコーダー音楽の演奏を対象にしたものではなく、まったく新たなリコーダー音楽の道を開く方向で、ということになる。

 

リコーダーの楽器としての制約を基本的に受け入れながら、ギリギリのところで性能の限界に挑むことで演奏に緊張感と感動をもたらすという奏者の姿勢は実に尊いものでよく理解できる。それはそれとして、同時に、まったく新たなリコーダー音楽の創出という可能性にも興味がある。エレキ・リコーダーが単なる余興の域を脱してブレークするとしたら、いったいどんな音楽が用意されることになるのだろうか。今のところその気配はなさそうだが、先のことは誰にもわからない。

 

                西欧の生みし科学の汚点とふ優生学とマルキシズムは

2023年3月12日 フール・オン・ザ・ヒルが教えること

ビートルズ(The Beatles)が使ったさまざまな楽器の中にはリコーダーも含まれている。「丘の上の愚か者」というタイトルで実は世捨て人的な賢者を題材にしたと言われる The Fool on the Hill に有名なリコーダーのソロがある。
https://www.youtube.com/watch?v=wsRatIMUSu8 

 

ビートルズの他の作品と同じようにこの曲も複雑な多重録音で作られており、一通りレコーディングが終わった後、ポール(Paul McCartney)がリコーダーを吹き、さらにその後に二人のフルート奏者がフルートのパートを重ねてできたレコードだという。
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ビートルズの曲作りについて作家の芦原すなおさんが『デンデケ・アンコール』で次のように書いている。「あの4人全員、おそらく楽譜が読めなかったのではないかと思う。そして、それで一向に困らなかったのだ。彼らは自分の中である程度歌ができてくると、こんな曲だよと、仲間に披露する。それ、いいね、と他の仲間が支持すれば、それをレコーディングということになるが、…レコーディングしながら、歌詞、メロディ、コードを練り上げて行く。言ってみれば、作曲とアレンジが同時に行われているわけだ。…そして、コードにしても、ギターを弾きながら、このポジションで、この音を加えるとぐっとカッコよくなるぞ、なんて発見をしながら磨き上げて行く、頼りになるのは、各プレーヤーの、センスと知恵とウィットと直感と、そして何より耳である。そうやって融通無碍に作り出された曲…」

 

こういう世界があることを知らないわけではないが、私にはまったく入っていけない世界だ。悲しいことに私は楽譜が無ければ演奏できない。譜面台の楽譜が風にさらわれたらカタマッてしまう。楽譜が使えない場合は暗譜するしかない。そしてさらに悲しいのは、楽譜さえあればなんでも演奏できるというわけにいかないことだ。リコーダー音楽の少なからぬ部分は私には難しくて演奏困難なので、私にとっては存在しないも同然である。これでも私はリコーダー奏者と言えるのか、と思う。芦原さんの想像によるビートルズのレコーディング風景を羨ましく読んだ時、世の中には三種類の奏者がいると考えた。視覚による奏者と聴覚による奏者、それに視聴覚による奏者だ。

 

第一のカテゴリーは視覚奏者だが、私たちアマチュアのほとんどがここに属すると思う。視覚奏者には楽譜を介してのみ音楽が伝達可能だ。視覚奏者は楽譜に強く依存するためか聴覚の活用がおろそかになり、他のパートの演奏に耳を貸さない傾向がある。合奏の際もお互いの響きを聴き合うというより、ひたすら楽譜上で自分の位置だけを確認し、他者はどうあれ自分の領分を固く守って演奏することを優先する。これでは音楽の楽しさ、対話的な合奏の面白さがわからず、ビートルズの融通無碍な演奏は別世界の出来事だ、と我ながらいつも思う。強すぎる楽譜の呪縛から解き放たれるにはどうすれば良いのか。

 

第二の集団は聴覚奏者。ジャズやロックではプロフェッショナルな演奏家でも楽譜を読むことが苦手な人が多いと聞く。彼らは楽譜に固定的に記された音楽だけを演奏するつもりは毛頭なく、また彼らの音楽では楽譜はメモ的な役割しか果たしていない(らしい)から、そもそも楽譜だけに頼っていては音楽にならない。太古の昔、音楽が生まれた時に楽譜はなかったから聴覚による演奏が音楽にとって本来の姿だったはずだが、幸か不幸か楽譜が考案されて以来事情が変わっていく。当初はメモ程度の役割だったであろう楽譜が徐々に発展を遂げて肥大化し、いつのまにか現代では楽譜の完全性、不可侵性が約束事になった。その結果、聴覚は視覚に軒先を貸して母屋をとられ退化してしまった。音楽学者のクリストファー・スモール(Christopher Small)は「それ(楽譜)はひとつの制限である。演奏できることは記譜された譜面上に限られ、演奏者が自主的に演奏する力を委縮させがちだからだ」と指摘する。
一昨年の織田作之助賞を受賞した岸政彦さんの小説『リリアン』の主人公はジャズのベース奏者である。主人公に指導を受けるアマチュアの中年男性がアドリブを演奏する場面がある。「…ベースソロに入った。俺は自分が弾くよりも他人が弾いているのを見てるほうが緊張する性質で、もういてもたってもいられないぐらいそわそわしていた。がんばれおっさん。おっさんのアルペジオなのかソロなのかわからんようなソロが始まった。(ピアノ奏者の)菊池がすっと後ろに下がり、おっさんが道に迷わないように丁寧に、一拍めにわかりやすいコードを弾く。おっさんは必死にソロを弾き終わり、もういつ死んでもええという顔で菊池のほうを向いてうなずく…」
ジャズやロックを志す奏者と言えども、現代人が、太古の昔にそうであったような音楽本来のあらまほしき姿を取り戻すためには死に物狂いの努力が必要で、それでも初めは「アルペジオなのかソロなのかわからん」貧弱なメロディが精一杯だ。

 

そして第三のカテゴリーが視聴覚奏者である。クラシック分野のプロフェッショナルな演奏家は視覚と聴覚を両方活用して演奏ができる人たちだ。楽譜が真っ黒に見えるくらいぎっしりと細かい音符で書かれた難曲を演奏することもできるし、通奏低音を即興でリアライゼーションすることやカデンツァの即興演奏も思いのまま、と考えていた。だが実態はそうでもないらしい。現代のプロフェッショナルな音楽家も楽譜を離れて自由な楽想を表現することは難しいようだ。何年か前のNHKのドキュメンタリー番組に、ヴァイオリニストの宮本笑里さんがロマ音楽で有名なロビー・ラカトシュ(Roby Lakatos)を訪ねて教えを乞うという企画があった。彼女の目的は「楽譜にとらわれすぎず自由に演奏すること」と番組中でラカトシュに打ち明ける。ラカトシュは「簡単なことさ。感じるままに弾けば良い。気持ちで弾くんだよ」とこともなげに答える。おっしゃる通り。ラカトシュのたとえば以下の演奏は最初から最後まで、しかも全員が即興で「感じるままに弾く」を心から楽しんでいるようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=KBNKhK5CXsc 
楽譜の制約から解放された自律的で自由な音の響きの世界がここにはある。しかし多くの奏者にとって「感じる」ことと「弾く」ことの間には大きな断層があって直接つながらない。だから「感じるままに弾く」というアドバイスはほとんど意味をなさない。現代ではプロの演奏家と言えども視聴覚奏者はそれほど多くないらしい。

 

最近、バロック・オーボエ奏者でリコーダー奏者でもあるブルース・ヘインズ(Bruce Haynes)の『古楽の終焉』を読んだ。ヘインズはこの話題に関連して次のように書いている。「われわれの社会が読み書きに重きをおくことから、奇妙に音楽家は進化して、読譜力上達のあまり、生まれもっていた即興能力が退化してしまった。いまでは音楽家の大半が、書かれた楽譜を頼りにするほかない。…私たち演奏家のほとんどは即興がまったくできないので、装飾音符やカデンツァを書き留めさえする」。また「私たちは作品を書かれたものとして考えたがる。不変の、安定した形態をもっているからだ。私たちは譜面台上の《音楽》について語る。だが楽譜に書かれている音符は作品ではない。じつのところ音楽でも何でもなく、演奏者が使うレシピ、料理本にすぎない。楽譜を音楽だと考えるのは料理本を食べようとするようなもの…」とも述べ、楽譜至上主義になってしまった原因の一つは「ロマン派時代に即興演奏が衰退し、その一方で芸術家としての作曲家の役割が増大した」ことに始まると分析している。

 

話が逸れるが、ヘインズのこの著作には多くの興味深い考察が含まれている。「ピリオド作曲」という話題もそのひとつだ。バロック期の演奏家は読譜力があって即興演奏ができ、さらに作曲の能力も持っていた。演奏だけで曲を書かない音楽家たちは《ムジカンテン》(Musikanten)という呼称を授けられ、音楽家の階級では最下層に属していたという。役割分担が進んだ現代では演奏家のほとんどがムジカンテンということになるが、現代のピリオド奏者の中にはムジカンテンになることを潔しとせず作曲に挑戦することで音楽世界の拡大と深化に努める人々もいる。ここで言う作曲は現代音楽の様式ではなく、18世紀のスタイルに忠実にしたがったもので、たとえばカナダのリコーダー奏者、マティアス・マウト(Matthias Maute)にこんな作品がある。
https://www.youtube.com/watch?v=LClvgmCZru0 
当時の作曲家が残した作品と言われればほとんどの人はそれを信じるだろう。ピリオド作曲は、剽窃や偽作の疑いをかけられて大きなスキャンダルに発展したフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler)の一連の作曲を思い起こさせる。そうした危うさにも関わらず意義があるということなのだろう。ヘインズは「過去をよみがえらせるのではなく、過去からインスピレーションを得るのだ」と言っている。

 

閑話休題、三種類の奏者の話に戻ろう。私たち視覚奏者の目標が視聴覚奏者になることとするとその道はあまりに遠い。どうしたら良いのか。リコーダーのホームグラウンドであるバロック音楽では、楽譜に書かれたものと即興をひとつの曲の中で組み合わせようとしていて、装飾記号はその好例だという。作曲者は装飾なしに旋律を書いて演奏者にインスピレーションと素材を提供し、演奏者はそれを受けて即興的に補足する。これに近いことなら私たちにもできそうな気がする。ヘインズによれば、誰もが毎日何時間も言葉を即興で操っているのと同じように、私たちは楽譜を離れて演奏する能力、必要とあらばごまかす才能を持っているそうだ。そんな能力が私の頭の中か指先で眠っているとは知らなかった。何とかしてそれを自分の耳で聞いてみたいものだ。そのためにまずは、圧倒的な力を持つ視覚の陰で引っ込み思案を決め込んでいる聴覚に目覚めてもらわなければならない。とりあえず目は楽譜に釘付けでも耳は広くて深く高い志を持ちたい。ポール・マッカートニーに ♫ The Fool on the Score ♫ と失笑されないように。

 

                          クレーン車細身で耐える春一番

2023年2月16日 ケンブリッジ・バスカーズの終焉

昨年5月の小欄でヤコブ・ファン・エイクの「笛の楽園」を話題にし、ファン・エイクの大道芸人的な音楽活動から「笛の楽園」が生まれたというエピソードに触れたのだが、その時に思い出したことがある。リコーダーと大道芸と言えば、私にとっては「ケンブリッジ・バスカーズ(The Cambridge Buskers)」である。文字通り「ケンブリッジの大道芸人」と名乗る、リコーダー(とさまざまな笛)担当のマイケル・コプリー(Michael Copley)とアコーディオンのダグ・イングラム(Dag Ingram)の二人組の人気は本国イギリスに留まらず、1980年代には日本でも大好評を博した。しかし日本でのブームは長続きしなかった。今やケンブリッジ・バスカーズと言って話が通じるのは特定の世代(前期高齢者以上?)に限られるようだが、ファン・エイクのことを書いた時、機会があったら現代の大道芸人を夢見たケンブリッジ・バスカーズについて考えてみたいと思った。彼らの演奏はこんな感じだ。
https://www.youtube.com/watch?v=1jEsK-uy64o&t=2122s 

ケンブリッジ大学で学んでいた彼らが1970年代後半に活動を始めたきっかけは、ロンドン市内のテムズ川沿いの駅で帰りの運賃が足りないことに気づいた二人が、それなら通行人からお金を頂戴しようと駅構内で演奏しはじめた出来事にあるという。もちろん彼らはロンドン交通局の職員に退去を命じられたのだが、この冒険をきっかけに本格的な演奏活動を始め、多くのコンサートとレコーディングで成功を収めた。テーブルの上に並べた多数の笛をとっかえひっかえ愛嬌たっぷりに演奏するマイケル(私たちには吉澤先生の楽器紹介コーナーでお馴染み)に対して、アコーディオンで合いの手を入れるダグはいくぶんさめた感じにも見えたのだが、片言の日本語で曲目紹介するなどサービス精神旺盛だった。80年代になると毎年のように日本でコンサートを開く彼らを見ていて、ケンブリッジ・バスカーズがクラシック版のベンチャーズになるかもしれないと思ったほどだ。

1988年頃、アコーディオン奏者がオルガニストで指揮者で作曲家、さらに歌手でもあるイアン・ムーア(Ian Moore)に交代したのを機にグループ名をクラシック・バスカーズと改めた。このアコーディオニスト交代劇が後々致命的に大きな意味を持つことになるとは当事者の二人ですらその時は想像もできなかったことだろう。そのころから彼らの消息を聞かなくなった私は、21世紀を迎えることなく彼らは解散したと思っていた。だから、この原稿のためにケンブリッジ・バスカーズのその後の消息を調べるうちに2016年6月に中国で起きた事件を知って二重に驚いた。出来事の内容に驚き、そして2016年にはまだ彼らが活動していた事実、それも中国で人気を博していたことに驚いたのである(2013年には横浜青葉区のフィリア・ホールにもやってきていた)。

事件の話をする前に、彼らの演奏の何がアピールして日本で大いに受けたのか、そしてそれなのにクラシック・バスカーズがクラシック・ベンチャーズになりそこねたのはなぜか考えてみよう。Youtube の映像を見ると、彼らの演奏の特徴は親しみやすい名人芸で観客の関心を惹きつけることにある。名人芸と言ってもさまざまだが、彼らの場合はわかりやすさが第一。指の動きの速さなら誰にも一目瞭然だ。もう一つの特徴は演奏時間にある。お馴染みのクラシックの名曲を3分程度に圧縮して演奏することで親しみやすい雰囲気を作り出す。3分ならクラシックに縁遠い観客でも飽きずに耳を傾けてくれるし、クラシック・ファンであれば長い名曲をたった3分に凝縮する編曲のワザを楽しむこともできる。観客層がグッと広がる。
しかし、長所は短所でもある。いくら原曲が名曲でも3分で表現できることには限界がある。もともと数十分間の演奏で完結する音楽を細切れにしてしまうと深みに欠け、発展性も無くなる。笛もアコーディオンも本来はじっくり深い情緒を表現できる楽器なのに、人目を惹く速弾きだけでは音楽が制約される。編曲やパロディに発揮した彼らのユーモアは原曲を知る人にしか分からない面もある。結局「3分間クラシック路線」はクラシックファンにはもの足らず、クラシック通でない聴衆にはユーモアや編曲の工夫が伝わりにくく、どちらの側からしても中途半端で繰り返し聴くほど面白いものではなかったということだろう。

そして上海事件である。そのあらましは次のようなものだった。ニュース記事
https://slippedisc.com/2016/06/english-chorus-master-is-shamed-in-china-for-not-wearing-knickers/ 
によれば、3年連続で中国で公演中のクラシック・バスカーズによる子供向けのショー「Magic Flute」が6月に上海で開催されたが、公演中、最前列に座っていた親たちが子供たちを連れて突然劇場を立ち去ってしまった。母親たちから、夜の女王を演じていたイアン・ムーアが短いスカートの下にニッカーズ(knickers。辞書によれば、イギリス英語では「短い下着」とか「半ズボン風下着」の意)を着けずに舞台に上がったとクレームが寄せられた。その後、イアンは「衣装替えの後、ニッカーズを履くのを忘れた」と謝罪し、「ズボンを履いていたが小さかった。いつも履くもっと大きなズボンを忘れてしまった。ツアー初日で時差ぼけのせいもあったかもしれない」と釈明したが、結局残りの中国公演は中止を余儀なくされた。表向きの理由が「出演者の体調不良」というのも二人には承服しかねるものだったかもしれない。

この事件がクラシック・バスカーズに唐突な終焉をもたらした。彼らにどのような葛藤があったのかは知るべくもない。ホームページによれば二人とも音楽活動をやめてはいない。マイケルはフルートやリコーダーなどの楽器演奏や音楽理論、編曲の個人教師をしているし、イアンも合唱団の指揮や教会の音楽監督を続けている。

ここから先は私の妄想である。クラシック・バスカーズは二人にとって現代的な大道芸の可能性を追求する実験的な場だった。もちろん、ステージ上は予定調和の世界なので彼らはバスカーズ(大道芸人)とは言えない。チケットを買ってホールの客席に行儀よく並んだ聴衆を相手に彼らが演じていたのは大道芸の物真似だったが、それでも面倒な制約の中で現代的大道芸に近づこうとしていた。どのくらい近づけたのか、その試金石がパンツ履き忘れ事件だった。往来の大道芸なら、それは笑いのネタになって観客と当意即妙のやり取りで盛り上がるだろう。しかしステージではそうはいかなかった。客席にずらりと並んだ中国の母親たちは教養主義的西洋音楽の信奉者だったかもしれず、そうであれば子供に大道芸もどきの音楽ではなく芸術を鑑賞させているつもりだったのではないか。中国の観客に下品さを咎められたことは、立居振舞いの上品さと道徳的規範の強さに自信があったはずの大英帝国のインテリにはことさらこたえたかもしれない。この事件で結局、観客には自分たちのイギリス流ユーモアや大道芸的芸風が通じていなかったのだとバスカーズの二人組は深く悟ってガックリ落胆し、擬製の大道芸の幕を潔く降ろした。そのように私には思えた。

マイケル・コプリーの足跡は、ケンブリッジにおける彼の先輩デヴィッド・マンロウ(David Munrrow)を連想させるところがある。1942年生まれのマンロウはリコーダー奏者でイギリスの古楽復興運動の先駆者のひとりだった。学究的な活動だけでなくテレビ出演やレコード録音を通じて古楽を親しみやすいものにした功績は計り知れない。音楽評論家の三浦淳史が「マンロウの音楽づくりには、古楽器特有のぎごちなさとか晦渋さが全く感じられず、自発的な天衣無縫としか思わせない独特のマジックがあった」と評した(1980年代の批評)が、そうしたマンロウの音楽がコプリーに影響を与えた可能性は大いにある。マンロウはロンドン王立音楽院教授として後進の指導をする傍ら、演奏家、合奏団のリーダー、講演、執筆、テレビ出演など、八面六臂の精力的な活躍のさ中、33歳の若さで唐突に死に魅入られてしまった。彼の自死の真相は謎につつまれたままだ。コプリーの一見して屈託なく明るい表情の裏に思いつめやすい生真面目さが潜んでいるように私には感じられる。その気質がクラシック・バスカーズの幕切れのあっけなさに影を落としていはしないだろうか。

                          木の芽時目覚むる持病の律義さや

2023年1月25日 「私は独りぼっちだ」

今月からヘンデル(Georg Friedrich Händel)の Vivace の練習が始まった。テネント(R. D. Tennent)の編曲による四声のリコーダー合奏曲だ。楽譜の冒頭に、
 Original 1st Movement for HWV 338
 Concerto in Act 1 of Ottone HWV 15
 1st Movement of Opus 3 Concerto 6
と書かれている。編曲の元となった曲はヘンデルの3つの作品に使われていると記されているのを見て、いかにも借用好き、流用癖が強いヘンデルらしいと思った。もっとも、
 ・「オットーネ」HWV 15 第1幕 コンチェルト 
 ・合奏協奏曲 作品3-6 HWV 317 第1楽章
には確かにこの曲が用いられているが、HWV 338(アダージョとアレグロ)にこの旋律は現れない。ヘンデルの作品解説を調べても、これら3曲が同じ旋律を共有しているとの情報を見つけることはできなかった。テネントの楽譜にある記述は誤りではないだろうか(事情をご存知の方はぜひご教示ください)。そうであったとしても、ヘンデルの2つの作品に同じ旋律が使いまわしされていることに間違いはなく、自作の転用とは言え、それは現代の感覚からすると何かしら負い目を感ずる行為と言うべきだろう。

 

バロック期にはこの種の借用・転用は社会通念上ある程度許容されていたようだ。当時は作曲された曲の大半が一度だけの演奏機会しかなかったから、演奏会で特定の曲を繰り返し演奏し、CDやネットで大量に販売する現代とは、同じ借用でも状況が大きく異なる。バロック時代には著作権の概念も確立しておらず、音楽と生活や社会との関係も現代とは違うから、私たちの価値観でヘンデルを断罪するわけには行かない。しかし、それにしてもである。ヘンデルは自作・他作を問わず頻繁な借用を行ない、不名誉ながら流用問題では群を抜く存在感で他を圧倒している。個々の事例を正確に列挙する知識を持ち合わせていないが、主題の借用は数え切れず、楽曲全体を丸ごと流用した例も多数ある。
ヘンデルの度を越えた借用ぶりは存命中から批判され、マッテゾン(本コラムの昨年3月の項でヘンデルとの決闘騒動を紹介した)は1722年の『クリティカ・ムジカ』のなかで「(ヘンデルがマッテゾンの作品を)一音一音丸写しで用いている」と辛辣に批判した。これが記録に残る最初のヘンデル借用批判である。ヘンデルの楽譜を出版して大きく儲けた出版者ジョン・ウォルシュ(父子)もなりふり構わぬ利益追求ぶりで有名な業者だった。そもそも別々に作られた楽章を適当に組み合わせて一つの曲と成し、勝手に「ヘンデル作」と冠して出版した無茶苦茶な例もあり、ヘンデルひとりに転用の責を負わすのは酷なのかもしれない。

 

19世紀に入るとヘンデル作品の中に他に類を見ないほど膨大な借用があることが論争の種となり、以後、20世紀まで続く。ヘンデルの行為を「剽窃」と非難する学者もいれば、逆に「石ころをもってダイヤモンドと化した」と評価する者もいた。現在では、ヘンデルの借用の事実を認めながら、それをむしろ積極的に評価する方向で大方の論争が収束しつつあるようだ。イギリスの指揮者・音楽学者のクリストファー・ホグウッド(Christopher Hogwood)は、「ヘンデルの借用に関しても、二十世紀の新しい観点がかつての激しい憤りを鎮めてくれる」とまとめ、「時に剽窃者になろうとも恥じることはない。それは偉大な画家や詩人たちも認めるところである。…素晴らしい作品を作るために、他人の作品からヒントを得たり、ひとつ、またはいくつかの図案を借用し、それらを自分自身の図案と合成できる画家は、借用行為に悩む以上の立派な名声を確立することになろう」というイギリスの画家ジョナサン・リチャードソン(Jonathan Richardson)の弁明を紹介している。

 

ところで、ヘンデルの作品の転用に関連して私には印象深い思い出がある。ヘンデルのホ短調のフルート・ソナタ(HWV 375。ハレ・ソナタ第2番と通称されるが、偽作の可能性も指摘されている)のレッスンを昔受けたことがある。第4楽章メヌエットの出だしで手間取った。冒頭に h' から g'' への跳躍があるのだが、これはいわゆる「愛の6度」だ。それにふさわしい深い愛情や憧れを感じさせる曲想で、と師匠から指導されて苦労した。こんな曲である(メヌエットは最後の楽章)。
https://www.youtube.com/watch?v=lFEg6wopnoY
この曲はチェンバロ組曲変ロ長調(HWV 434)のメヌエットから転用されたものである。
https://www.youtube.com/watch?v=SwNMUBlRD90
上の2つの演奏はいずれもHIP(Historically Informed Performance、歴史的な情報に基づいた演奏)の見事な例である。

さて、時代は一気に下って20世紀のピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff)が、このメヌエットをピアノ用に編曲した。ヘンデルの作品を後世の演奏家が借用したわけである。このピアノ版メヌエットをとりわけ好み、アンコール・ピースなどとして頻繁に演奏しているのがジョージア(グルジア)出身のカティア・ブニアティシヴィリ(Khatia Buniatishvili)である。彼女がこの曲を弾くのを初めて聴いた時、私は本当に驚いた。聞き覚えがあるのに何の曲か瞬時には思い出せなかった。「愛の6度」で始まる軽快なメヌエットが超スローなテンポに様変わり。これではもはやメヌエットは踊れないだろう。優美なバロック舞曲が、深い情緒をたたえて胸の奥深くに届く内省的な現代の音楽に変容した。
https://www.youtube.com/watch?v=K98695SLh6E
演奏に先立ってカティアは次のように話した。「この曲には不安定な心情を感じます。…自分にとって一番大切な自分の源といえる人から離れていくような気持ちです。…この曲は単に美しいのではなく、人間にとって最も大切で傷つきやすいところに触れるような作品だと思います」。
古楽器奏者にもカティア風を好む人がいるようで、ヴォイス・フルートによる下の演奏にはその影響が感じられる気がするがどうだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=uQRU3NV7ERE

 

HIP路線ならバロック風の優雅で穏やかな愛情、カティア路線なら困難な現代社会を反映した深く熱い愛情がふさわしい。結局、どちらの路線でも奏者に明確で強い愛がなければ「愛の6度」を表現できない。翻ってヘンデルはどのように愛情深い人物だったのか調べると興味深い事実を知る。さまざまな面でバッハと対照的なヘンデルだが、この点でもバッハとは異なる。たくさんの子供たちに愛情を注ぎ、つつましやかな暮らしをしていたバッハに対し、生涯独身でやり手ビジネスマンとしての才覚にも恵まれていたヘンデルは複雑な政治情勢の欧州で巧妙に立ち回り、音楽家として異例の財を成し、2万2千ポンド(現在の貨幣価値で2億~3億円)の預金を残して死んだ。大変なグルメで1日6食の大食漢だったという。そんな彼を揶揄して無礼にも、豚がオルガンを弾いている絵柄の風刺画が新聞に掲載された。借用と同じく、現代では問題になる表現ではないか。
(ここに写真がありますが、スマートフォンでご覧の場合は写真がこのページの最下段に

 移動しているのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

公人としてのヘンデルについては十分に記録が残されているが、私人としての彼は霧につつまれている(上の絵の下部に「私は独りぼっちだ」と書かれている)。豚に擬せられたエネルギッシュで豪快な人物は「愛の6度」でどんな情緒を表現しようとしたのだろうか。
 

                          スキップで病院入る子息白し
 

2023年1月19日 演奏姿勢は音楽に対する姿勢でもある

オトテール(Jacques Hotteterre le Romain)が1707年に出版した『フルート、リコーダー、オーボエの原理』は管楽器の教則本の嚆矢として歴史に残る貴重な文献で、現代でも多くの教則本や演奏家、指導者によって頻繁に引用されている。第1部のフルートの部分に最も多くのページが割かれていて、その冒頭は「第1章 体の状態と手の位置」と題され、以下のように始まる。「成功を望んでいる演奏をさらに完全なものにするためには、技術だけでなくできる限りの品の良さを身につけることが必要である。だから私はこの小論を、フルートを演奏している時に奏者がとるべき姿勢の話から始めることにしよう。……どこにも無理がかからない姿勢が良い。とりわけ、体や頭が動かないように注意しなければならない。拍子を取るために体を動かす人がいるがそれは見苦しい。洗練された良い姿勢はとても上品で、楽器の音色が耳に心地よく響くのと同じように人々の眼を魅了するものだ」。リコーダーを対象にしている第2部の最初も「第1章 リコーダーの位置と手の位置」となっていて、やはり姿勢について説明されている。つまり、フルートであろうとリコーダーであろうと上品な演奏姿勢がとても重要、というのがオトテールが最初に学習者に言いたかったことのようである。

現代のリコーダー名手には個性的な演奏姿勢の奏者がいる。彼らがそうした姿勢をとる理由を考えることは演奏を聴くことと同じくらい興味深く、名演奏家の音楽観を類推する手掛かりにもなりそうだ。
フランス・ブリュッヘン(Frans Brüggen)はリコーダー奏者として有名だが、キャリアの初めの頃はトラヴェルソも演奏していた。間もなく「トラヴェルソは苦手だから」(あの見事なトラヴェルソ演奏が苦手とは恐れ入る)と言い残してリコーダーに専念してしまった。その後、リコーダーからも引退して指揮者に転身。古楽復興運動の旗手としてはひとつの楽器にこだわらない生き方がふさわしかったのかもしれない。そのブリュッヘンが初来日したのは1973年。ちょうど50年前のことだ。その演奏会に行った記憶がある。40歳目前だったブリュッヘンはずいぶん狭い会場のステージに燕尾服ではなくツイードのジャケット姿(だった気がする)で現れ、パイプ椅子(だった気がするような気がする)に腰掛け、長髪のウネウネ癖毛をかき上げ、長すぎる脚を高々とあるいは深々と組み、右肩を下げてリコーダーをいくぶん横に向け、頬を膨らませて演奏を始めた。こんな具合だ。
https://www.youtube.com/watch?v=vQatlvFvGdM&t=91s
演奏は素晴らしかった、のだと思う。本当はよく覚えていない。それよりも、ジャケット姿で脚を組むとはなんて行儀の悪い演奏家なんだと驚いたことの方を良く覚えている。当時はクラシック音楽家は燕尾服に決まっていて、脚を組んで良いのはギター奏者とグレン・グールドぐらいだった。しかし、常識外れの外見の中に古楽の旗手として確信に満ちたブリュッヘンの音楽的理想のようなものを強く感じさせるオーラがあった。あの時会場では気づかなかったが上の映像をあらためて良く見ると、楽器が絶えず右に左に10度ずつくらい回転している。この動作に意味があるのかないのかわからない(後述の濱田芳通さんの例からすると深い理由があるのかもしれない)が、これもオーソドックスな姿勢の規範から外れているように思える。

モーリス・シュテーガー(Maurice Steger)を「リコーダーのパガニーニ」と呼ぶ人もいる。そのくらい超絶技巧が際立つ奏者である。この人の演奏姿勢も独特だ。自分の出番を待つ間はリコーダーを持った手を前で組んで神妙に控えているが、リコーダーのパートが始まるや、両足を左右に大きく広げ、膝をグニャグニャと曲げ伸ばし、片足をもう一方の足に引き寄せたり、踵を持ち上げたりしながら猛烈な速さで吹きまくる。テンポを合わせたい奏者へのアイコンタクトも大きな身振りだが、これは演出の一部なのかもしれない。ソロが終わってオーケストラに演奏を促す合図も茶目っ気たっぷり。猛烈な速度で駆け抜けたこの人にバトンを渡されるオーケストラにも相応の覚悟が必要だ。
https://www.youtube.com/watch?v=hggISFswKcw

演奏中にリコーダーをすりこぎのようにクルクル回す人が時々いるが、マルコ・スコルティカティ(Marco Scorticati)とサラ・カンポバッソ(Sara Campobasso)のクルクル度は相当なものだ。演奏しているのはオトテールのニ短調の組曲。原曲はトラヴェルソのための有名なロ短調の二重奏曲で、そのアンニュイな響きに合わせてリコーダーをクネクネと回しながら演奏している。クネクネはこの曲が持つあやしい雰囲気のせいなのか、どんな曲でもこうなるのか。マルコさんは長周期、サラさんは短い周期で回しているのは、それぞれのビート感の表れかもしれない。ひとつの楽譜を共有しているから二人はグッと近づいて立っている。最初の楽章グラヴマンと最後のパッサカリアはかなり長く、途中で譜めくりをしなければならない。グラヴマンではその時に休符があるサラさんが譜めくりをしているが、パッサカリアの2回の譜めくりは二人とも忙しい。その最初の箇所に近づくとサラさんがマルコさんの方を「お願いよ!」と言わんばかりにメガネ越しに一瞥。「かしこまりました!」とマルコさんが左手の指をパタパタ動かしながら(!)右手で見事に譜めくり。その間もクネクネは止まらず回り続ける。妖しさと可笑しさが入り混じったクルクル演奏、クスクス演奏だ。
https://www.youtube.com/watch?v=5ZoCmESsr2s&t=174s

濱田芳通さんは演奏の姿勢ではなく楽器の構え方がユニークだ。頭部管が左側に45度くらい回転している。エッと思って胴体を見るとこちらは普通の角度で指孔がほぼ真上になっている。歌口が唇に斜めに当たるから唇の間から息が漏れてしまって演奏しにくそうだ。だが、試してみると良く訓練すれば歌口からウィンド・ウェイに流れ込む呼気の量を微妙に調節できる感じもする。こうすればイントネーションや音量を細かくコントロールできるのかもしれない。さらに不思議なのは、足部管の開口部がなぜかセロテープで2割方ふさがれていることだ。ふさがれているのは斜め上の部分なので、呼気がしずくになって床に落ちるのを防ぐというわけではなさそうだ。最初は、楽屋で何かのはずみでセロテープが付いてしまい、それに気づかずに演奏しているのかと思ったが、何度か目にしているので意識的な行為に間違いない。濱田さんの演奏は歌心に溢れ、緊迫感に満ちた見事なものなので、それを聴いた後で演奏そのものの感想ではなく「頭部管だけが左に回転していますが…」とか「セロテープが斜め上に貼り付いちゃってますが…」などと枝葉末節(ではないにしても)にこだわる質問をする勇気はなかなか出ない。だが理由を知りたい。
https://www.youtube.com/watch?v=CbmhS8aUkEQ&t=298s

ブリュッヘンの初来日から50年。すでにこのオランダの大家は鬼籍に入ってしまい、私も老いた。今頃になって私がブリュッヘンの姿かたちを真似ることになるとは想像もしていなかった。2年ほど前、右手親指の痛みのせいでリコーダーを支えられなくなった。ストラップを試したが馴染めない。そこで脚を組んで膝の先に楽器の先端を置くワザを開発した。半世紀前に見たブリュッヘンと同じ格好だ。いやブリュッヘンは楽器を膝の上に置いたわけではないから、私のはブリュッヘンと「ほぼ」同じ格好と言うべきだろう。指の痛みを回避するための緊急避難の策ではあるが、ブリュッヘンの演奏スタイルを形だけ真似て、しかもそれを吉澤先生や演奏仲間に大目に見てもらって悦に入っていた。ある時、たまたまガラスに映った自分の勇姿を目にした。私の意識の中ではブリュッヘンと「ほぼ」同じ格好をしているはずなのに、「ほぼ」同じ格好になっていない! バランスが変だ。原因はすぐに分かった。長身痩躯のオランダ人ブリュッヘンは単に脚を組んでいたのではない。「長すぎる脚」を高々とあるいは深々と組んでいたのだ。脚を組むだけでブリュッヘンに近づくことができるのはある身体条件をクリアしている人だけに許された特権である。特権に恵まれなかった私はやがてリコーダーの代わりにトラヴェルソでお茶を濁すという禁断の荒技に手を染めた。以来、みなとみらいのブリュッ変は自宅に引きこもっている。

                           大寒や犬と目が合ふ乳母車

2022年12月15日 フルート製作冒険譚

先月、木材に比べて加工の容易なプラスティックがリコーダーの普及に貢献したことに触れた。そのことに関連する話題である。

30年ほど前、楽器製作に興味を持って製作家に弟子入りし、フルート作りの真似事をしたことがある。生意気盛りの若気の至りと言うしかない。もちろん、金属製でたくさんのキーが付いたモダン・フルートではなく、古楽器としてのフルートだ。リコーダーと同様、古楽器のフルートにもルネサンスとバロックのモデルがあるが、この2種類のモデルの構造上の相違はリコーダーの場合とほぼ同一である。ルネサンスのリコーダーやフルートは円筒管、つまり内径の大きさが変化しない寸胴の筒状の管を使っている。これに対してバロックのモデルは円錐管で、先端(歌口の反対側)に行くほど内径が細くなる。
西洋音楽の音階を形成する音の波長は等差数列ではなく等比数列の関係になっているから、音程が下がるほど指孔と指孔の間隔が広がる。ギターのフレットがそうなっているのと同じ原理である。左手より右手、右手の中でも人差し指側より小指側の方が指孔同士の間隔が広くなる。バロック時代になると管の内径を徐々に絞って円錐形にすることで指孔と指孔の間隔を等比数列的に広げない工夫がされて右手の運指が楽になった。円錐管の利点はこれに留まらず、第1オクターブと第2オクターブのフィンガリングをほぼ同じにすることを可能にし、独特の豊かな表情の音を創り出すなど大きな変化をもたらした。管の内径の絞り具合は数式で示されるのではなく経験知なので製作者やモデルによって異なる。現代の製作者はオリジナル楽器の内径を細かく正確に計測してそれをコピーするのだが、古楽器は製作時から数百年経過しているので木材の変形が避けられず、それをどう評価するかという複雑な問題に対処しなければならない。
また、バロックのフルートやリコーダーの指孔にはアンダーカットと呼ばれる工夫が施されている。指孔の直径が内部に進むにつれて広がり、反対側(楽器の内側なので見にくい)では一回り大きくなっている。イントネーションを調整するための工夫だが、この広がり具合も製作者やモデルによって微妙に異なるので素人のにわか職人がバロック・タイプの楽器を作ることは困難だ。

というわけで私はルネサンス・フルートに挑戦することになった。師匠の材料の在庫の中から、品質に難があって師匠が使わないであろう部材を選び、これを大雑把にフルートを含む四角柱の形に切り出す。電動ノコギリなのであっという間に望みの四角柱ができた。次の工程は旋盤にガンドリルという、長い部材に長い孔をあけるために使う刃を取り付けて、四角柱の部材をくり抜くのだが、旋盤が緊迫感に満ちた高周波の音とともに高速で回転してフルートの内径を作り出す間、部材を手で支えなければならない。木がスパスパ削られる小刻みな振動が手に直接伝わってくるので怖い。もし部材が割れたら旋盤の刃物が木の代わりに私の手を削り取ることになる。腰が引けるが、しっかり支えていないと正確な内径を作ることができない。内径を削り出したら部材を旋盤に固定してカッターを当てて外側を丸く削る。こけしを作る要領だ。これは気持ち良いが、注意しないと外側が滑らかにならず波打ってしまう。内側に均一な内径を正確に作り、外側を滑らかに丸くする、この2つの作業を繰り返して目標の寸法に仕上げるのだが、進捗に応じてガンドリルの代わりにリーマという切削工具を使う。仕上がりに近づくにつれてフルートの管厚が薄くなるので、フルートを支える手にリーマの切削具合がますますビビッドに伝わってくる。

内径が徐々に細くなるバロックのフルート(リコーダーも)では可動リーマという工具を使って内部の削り具合を細かく調整する。オリジナルと正確に同一になるように内径を変えることはとても難しい。そして、ここが最も重要でしかも良く分からないところだが、ルネサンス時代もバロック時代も電動モーターは存在しないから人の力でこの仕事をやり遂げなければならない。人力で柘植や黒檀などのきわめて硬い木材に正確で長い穴をあける作業ができるとはとても信じられないが、論より証拠、貴重なオリジナル楽器が雄弁に当時の職人の見事な腕前を物語っている。どんな工具を使い、どんな手順で仕事を進めたのか知りたいものだ。おそらく管楽器製作工房にはモーター役の屈強の職人がいたのだろう、いたはずだ。彼がロクロの何倍もの速度と力で回る旋盤の動力源になっていたに違いない。


余談だが、モーター役の職人と言えばパイプオルガンを連想する。現代のパイプオルガンはスイッチひとつで電動モーターが作動して望み通りの風を簡単に送り続けることができるが、電気以前の時代はカルカント(と呼ばれるふいご職人)が必須だった。深夜、バッハがふとオルガンを弾きたくなったとすると、当然カルカントもたたき起こされて付き合わされることになる。そういう夜が訪れたことがあったかもしれない。曲の最初から最後まで絶え間なく一定の強さで風を送り続けるには相当の体力と技術が必要で、文字通り音楽史を裏で力強く支える大切な存在だった。作曲家アントン・ブルックナーはオルガニストとしても有名だが、彼の実弟イグナツはカルカントだった。職人のプライドが高い人で「兄貴がどれだけ偉いか知らないが、俺がいなければ何もできないのさ」とうそぶいていたと聞く。真偽のほどはわからない。

フルート作りの苦労話だった。ルネサンス・フルートの管体は1本で継ぎ目は無いので、とても長い孔を正確にあけなければならない。旋盤の威力を借りても私にその作業をする能力はないので、頭部管と胴部管の2つに分けて孔をあけた。2つの管体を接続して一応楽器の大枠ができたところで歌口と指孔を作る。アンダーカットのない孔をあけることは電動ドリルで簡単にできるが、問題は孔の位置と大きさである。設計図に正確にしたがってまず歌口を作り、低い方から順番に音孔をあける。音程を確かめながら次の孔に取りかかる。しかしこの工程が思ったように進まず、作業している間に不吉な予感がムラムラと黒雲のように湧いてきた。歌口を含めて7つの孔をあけて一応完成。ドキドキしながら試奏してみる。案の定、求めていた音階からずいぶん離れた音がする。何としたことだ。

実は製作家に弟子入りする前に塩化ビニル(プラスティックの一種)でルネサンス・フルートを作り、付け焼刃ながら腕を磨いた。一様な内径で管体を正確にくり抜くという作業はすでに完璧になされているから、あとは指孔と歌口を正確にあけることだけが私の作業。これなら日曜大工の工具で対応できて自宅の机の上でも製作可能だ。設計図にしたがって孔をあけたこの塩ビ管ルネサンス・フルートは音質はともかく、音程はそれなりにもっともらしく響いた。これで少しだけ自信をつけて製作家に弟子入りしたのだが、木管ルネサンス・フルート第1号はひどい出来栄えになってしまった。あらためて先端を見ると内径と外径が同心円になっていない(!)。黄身が白身の中心からずれて茹で上がったゆで卵の断面のように、管体の厚さが一定ではなく薄い側と厚い側ができてしまっている。打ち負かされたみじめな気分だ。こうなると、正確に一様な内径でまっすぐな孔ができているかきわめて疑わしい。しかしいまさらどうにもできない。できる工夫といえば歌口と指孔を調整することだけだが、孔を小さくすることはできないからどれだけ大きくするかの一方通行。ここを少し大きく、そこを大きくしたらこっちも大きく、と試行錯誤しているうちにすべての指孔が見る見る大きくなり、しかしそれでも音程は直らず、古今東西どの音楽文化にも帰属しない無気味な音階を奏でる面妖な楽器になってしまった。もしこれを楽器と呼べるならばだが。

文明の利器の威力にすがっても私はルネサンスの職人の技に遠く及ばなかった。しかしそのことにむしろ安堵したのは、人間に本来備わっている能力の高さと繊細さ、それらが創り出した一見簡単な構造に見える楽器の精妙さを認識できたからだと思う。久しぶりに自作の木管ルネサンス・フルートのホコリを払ってみると管体が曲がっていた。同じ環境に置いておいた自作のプラ管ルネサンス・フルートにはまったく劣化は見られない(これは別の意味で厄介だ)。もちろん現代の名工の手になる木管フルートも健全だ。私の腕前に問題があるとは言え、わずか30年で木管はこのあり様。水濡れと乾燥を繰り返す苛酷な環境におかれながらも変形せずに正確な音程で長期間使用できる木管楽器は熟練の職人技と良質の木材が揃って初めて生まれる工芸品である。

フルート製作の真似事や製作家の仕事の見学を通じて漠然と感じたことがあった。フルートは、フルートが望む方法で自然に優しく扱われた時にだけ約束された妙音で応えるように作られていて、奏者が力ずくで音を出そうとすることを強く嫌う。奏者に強いられて出した音は製作家と木材の悲鳴と言うべきか。他の楽器も同じだろう。楽器にとっての「自然に優しく」はもちろん「奏者の気ままに」や「おっかなびっくり」や「単なる脱力」とは大いに異なる。私たちが楽器を練習するのは、つまるところ楽器が望む「自然」に至る道を探求するプロセスに他ならない。製作家の寡黙なたたずまいにそう諭された気がした。

(ここに写真がありますが、スマートフォンでご覧の場合は写真がこのページの最下段に

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(左から塩ビ管ルネサンス・フルート(自作)、わん曲した木管ルネサンス・フルート(自作)、柘植のバロック・フルート、黒檀のバロック・フルート、モダン・フルート)

​                           梟の知恵も威厳も我になし

2022年11月17日 楽器も「人生いろいろ」

私たちは目の前にある楽器を当たり前の存在と思うことに慣れ、それが楽器のすべてと考え勝ちだが、歴史の襞に埋もれて消滅してしまった楽器は数多い。おそらく無数にある。柱状リコーダーやエコー・フルート(がもし存在していたら)も現代までたどり着けずに廃れてしまった。今ある楽器も長い変遷をたどって現在の姿形になったのであって、初めはずいぶん異なる形状、構造をしていたものもある。老人は生まれついての老人ではなく赤ん坊の時と同一人物と思えないほどの変貌を遂げる、そういう人間の一生と似ている。
ササン朝ペルシャのバルバットと称する撥弦楽器が東方に進んでインドのヴィーナ、中国のピーパ、さらに日本では琵琶になったという。逆にペルシャから西進したバルバットはアラビアのウード、さらに西欧のリュートへと変化し、イタリアで小型化した子孫がマンドリンになったらしい。バルバットそのものは実物が存在せず、遺跡から出土する工芸品の装飾として描かれた絵があるのみの幻の楽器だから本家本元との直接比較ができないが、それぞれの国に根づき花開いたバルバットの末裔たちはその土地の風土やそこに住む人間の嗜好に寄り添って生きることで命脈を保った。その結果、撥弦楽器という大枠は同じでも、姿かたち、構造、素材、彩色、装飾などの外見は各民族の美意識を反映し、音色、音域、音階、奏法は多彩な民俗の音楽観を物語り、各楽器が奏でる音楽はその土地の文化と密接に結びつくことになった。バルバット家の家系図は時間にして2000年、空間にしてユーラシア大陸の西の端から東は海峡を越えた島国までの広がりを持つに至った。

楽器の進化は音量の増大と音域の拡大の2つの方向で整理されることが一般的だ。星野博美さんは『みんな彗星を見ていた』の中で次のように紹介している。バロック初期まで楽器の女王として君臨していたリュートは音域や音量で自らを凌駕する鍵盤楽器の登場にあわて、生き残りをかけて進化を急いだ。弦を増やし、棹をどんどん延ばした結果、ふと我に返ってみれば佐々木小次郎でも持て余すほどの長大で扱いにくい楽器になってしまったおのれの姿に驚く。リュートの失敗を見ていたマンドリンは賢い選択をした。鍵盤楽器への対抗心を捨てて南イタリアの限られた地域だけでつつましく生きていくことを決心し、自らガラパゴス化することで絶滅を免れた。一方、ギターはしぶとい化け物みたいな楽器だ。節操なくあらゆる要求に応え続けて姿形は変幻自在、電気の力を借りて大音量を得ることまでして生き延びた。

このような楽器の歴史的変遷をたどると、あたかも楽器が人格を持ってそれぞれにふさわしい人生を生き抜いてきたように思えてくる。楽器も「人生いろいろ」なのである。多くの楽器家系は自分の生まれ育った土地を離れることなく、狭い場所で濃密な音楽世界を作って連綿と生き続ける。しかし、近代を制したヨーロッパ文化の不可欠の要素として世界に広まった西洋音楽の楽器の家系は、行く先々で外来種となって地元の楽器を脇へ追いやり、時に尊大な顔を見せる。また、別の家系は途中で途絶えてしまったものの、音楽史の中で独特の光芒を放って魅力的なレパートリーと共に永遠に生き続ける。さらに、いったん途絶えたはずの家系が何かの拍子に脚光を浴びてよみがえり、再び新たな人生を始めるものもある。

音楽学者でリコーダー奏者でもある西岡信雄さんが「楽器のステータス」というエッセイの中でこんなことを書いている。リコーダーとチェンバロはともにルネサンスからバロック時代にかけてヨーロッパで大流行した。しかし18世紀半ばになって世の中の嗜好が強弱変化に富む音楽へと移り変わった結果、リコーダーはトラヴェルソに、チェンバロはピアノに、それぞれの地位を奪われてお蔵入り。このまま博物館で息絶えるかと思われたが、二十世紀初頭の古楽復興運動の波に乗って長い眠りから覚めてリバイバルを果たす。ここまではリコーダーとチェンバロは同じ人生街道で苦楽をともにしてきたが、ここから先の人生が対照的になる。運命の岐路は人間が発明した合成樹脂である。教育用楽器としてのリコーダーに最初に注目したのはドイツだが、そのアイディアの成功はプラスティックの登場による。木材を旋盤でくり抜いていたのでは大勢の子供たちに安く均一な品質のリコーダーを提供することは難しい。プラスティック加工というテクノロジーの力を背景にリコーダーは、チェンバロが足元にも及ばない普及度を獲得した。一方のチェンバロは大量生産時代に逆行する楽器で、今でも木材を接着剤で組み立てる手工業製品。製作困難で高価なチェンバロはその希少性を逆手に取って高貴な楽器となり、大衆性を得た代償に希少性を失ったリコーダーとはほとんど対極に位置しながらサバイバルを成し遂げた。

西岡さんは、復活後のリコーダーとチェンバロの対照的な人生に注目した。しかし、リバイバルしたその他の古楽器と比較するとリコーダーとチェンバロには共通する独特な特徴があると私は思う。それは現代的レパートリーの存在である。リコーダーにもチェンバロにも現代の作曲家が作った作品が多数ある。ルネサンス・バロック期にリコーダーのために作られた曲よりも、リバイバルした後に作られた作品の方が多いと聞いたことすらある(本当だろうか?)。私たちがリコーダーで合奏する曲もルネサンスから現代までに作曲された作品、現代になってリコーダー合奏用に編曲された作品など多岐にわたる。しかし、その他の古楽器には現代のレパートリーというものは存在しない。トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・ヴァイオリンなどのための現代のオリジナル作品や編曲物を聞くことはほぼ無い。その理由を考えることは興味深いが、それは別の機会に譲ろう。
リコーダーとチェンバロ以外の古楽器はリバイバル後もオリジナル期と同じレパートリーを演奏している。つまり、リバイバル後もオリジナルの人生をなぞり、同じ路線でふたたび生き直している。しかし、リコーダーとチェンバロはオリジナル期とリバイバル期とでは大きく異なる人生を送っている。リコーダーのための現代曲の中にはオリジナル期には用いられなかった重音奏法を駆使してまったく異質な音楽世界を作り上げるものがあるし、武満徹がチェンバロのために書いた「夢見る雨」が奏でているのは300年後の世界の響きであり、そこにはオリジナル期にはまったく想定外の日本的な情緒も表現されている気がする。オリジナル期とリバイバル期の音楽を聴くとその相違に驚き、そのことを当の楽器自身はどう考えているだろうか、と想像をめぐらせる。長い眠りの最中に突然揺り起こされ、自分の前に勝手に用意された別の人生に古楽器としてのリコーダーとチェンバロは戸惑っているだろうか。それともオリジナル期もリバイバル期も楽器が持つ潜在的能力をそれぞれ自然に発揮できている、別の意味でどちらもハッピーな人生だ、と二度の人生に得心しているだろうか。

明治維新を境に江戸と明治という大きく異なる二つの世を生きることになった福澤諭吉は自らの人生を「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」(『文明論之概略』)と振り返った。復活後にまったく新たなレパートリー世界を手に入れたリコーダーとチェンバロも福澤と同様に予想外の自らの人生に深い感慨を抱いているに違いない。「一管にして二曲を奏するが如く一台にして二台あるが如し」

                         短日や「合唱」あふれくる練習室

2022年10月20日 エコー・フルートを巡る物語

ヴァイオリンと2本のリコーダーが独奏楽器となって縦横無尽に活躍する J. S. バッハのブランデンブルク協奏曲第4番はリコーダーを学ぶ者にとって宝物だ。バッハの時代、リコーダーはフルートに取って代わられつつあった。そのためかは知らないが、バッハの手になるリコーダーのためのソナタやソロの協奏曲は残されていない。だから、この曲とブランデンブルク協奏曲第2番はバッハからリコーダー奏者への貴重なプレゼントである。しかし、第4番の独奏楽器は本当にリコーダーなのか、という疑問が長年論争の種になっている。自筆譜では Fiauti d'Echo(フィアウティ・デコー) と楽器指定されている。バッハはリコーダーに Fiauto と Flauto の両方の呼称を用いていたから、現代人にわかりやすい綴りで単数形にして書くと Flauto d'Echo。フラウト・デコー、つまりエコー・フルートだ。当時「フルート」と呼ばれていた楽器は現代のリコーダーで、今のフルートは当時は「Flauto traverso」、フラウト・トラベルソ、横吹きのフルートという名称だった。同じブランデンブルク協奏曲の第2番には Fiauto(第2番はリコーダー1本なので単数形)と書かれている。これらのことから、Flauto に d'Echo が付いたエコー・フルートは現代のリコーダーとは別の楽器であるとする説に一定の説得力がある。第4番の第2楽章にフォルテとピアノで対照的な旋律を奏でる部分が続き、それをエコー効果的に演奏することをバッハは求めていた。リコーダーは強弱の変化をつけることが難しい楽器なので、リコーダーではなくエコー・フルートが用いられるべきだ、というのがその主張である。しかし、肝心のエコー・フルートの正体が分からない。「Fiauti d'Echo という楽器名はどの楽器辞典にも、教則本にも見られない」(「"Fiauti d'Echo"とは何か?」江戸聖一郎)という。それは私たちがすでに知っている楽器の別称であるという説もあれば、私たちの知識の範囲外の楽器、未知の楽器に違いないとの見解もある。中には d'Echo は単なる綴りミスだとする大胆な論文すらあるようだ。さまざまな想像や仮説が生まれ、論文が書かれ、それらにもとづくアイディアが試されてきた。強弱に調整された2本のリコーダーをブリッジで結びつけて交互に演奏する例はそのひとつである。
https://www.youtube.com/watch?v=sY_KLDOVLos
アンダンテの楽章なのにリコーダーは小走り的に忙しい。楽器を落としそうな緊張感があってスリル満点。演奏姿はインパクトがあるが楽器としての魅力はどうだろうか。こういう楽器で強弱を吹き分けることができたとしても普及は難しそうだ。

ドイツの古楽器アンサンブル、コンチェルト・ケルンが2014年に発表したブランデンブルク協奏曲全集は、この点で大きな話題になった。エコー・フルートの正体を突き止め、残された図面をもとに楽器を再現して演奏に使用したというのだ。こんな演奏である。
https://www.youtube.com/watch?v=zTY5MlRJm6w 

この主張が長年の論争に終止符を打つだけの説得力を持つものなのか私には判断できないが、CDが発売された時に大いに興味を持ち、再現されたエコー・フルートを見てみたい、演奏してみたいと強く思った。コンチェルト・ケルンで演奏している女性は隣の男性の相棒に比べるとずいぶん小柄で力も弱そうだから日本人にも扱えるだろう。再現したのはスイスの楽器製作者で、注文すれば製作してもらえることを突き止めた。だが少々お高い。しかも、コンチェルト・ケルン御用達のこの楽器が謎の楽器 Flauto d'Echo の正体である保証はない(と思う)。高額の発注メールの送信ボタンを押す勇気が出ない。そこで、こういう話題に私同様、あるいは私以上に関心をお持ちの Fさんに助けていただこうと良からぬことを考えた。Fさんは みなとリコ の大先輩である。期待にたがわず Fさんは「そりゃおもしろい!」と膝を乗り出して私の話を聞いてくださった。話が十分盛り上がったところで恐る恐る「この際、一本お買い求めになってはいかがですか?」とさりげなく核心に迫る。Fさんは一瞬考えておっしゃった。「とても興味深いけれど、大枚はたいて買ってもレパートリーが後に先にもこの1曲だけっていうんじゃあねぇ…」 確かに Fiauti d'Echo と指定のある楽曲はバッハしか残していないし、その上、膨大なバッハの作品群の中でもブランデンブルクの4番だけ、しかもその第2楽章しか本領発揮のチャンスがないと聞けば、せっかくの購買意欲も青菜に塩だ。


以来、フォルテとピアノが頻出する曲に出会うたびに「Fiauti d'Echo の新たなレパートリーを見つけました!」と Fさんに報告し、未練たっぷりに再考をお願いしたくなる。先日の発表会で演奏したハイドンのディベルティメントにも「f」と「p」の記号が頻繁かつ交互にあらわれるので、ぜひ Fさんのお耳に入れたいと思った。幸い当日会場で熱演をお聴きいただけたが、久しぶりの再会は情けなくもお互いの体調不良と老化進行の話題で盛り上がり、「第1楽章をハイドンの指示どおりにリコーダーで演奏するためには Fiauti d'Echo が必須ですよ」という繰り言的お願いを失念してしまった。

そう言えば以前 F さんとこんな会話をしたことを思い出した。「小柄な女性奏者でも演奏できるというけれど、それはあやしい。確かにコンチェルト・ケルンの女性奏者は隣の男性リコーダー奏者よりずいぶん小さいけれど、よく見るとそれは女性が小さいのではなくて男性が大きすぎるせいですよ」「そうか、阿部寛効果ですね」「うん。あの凸凹コンビの女性はヨーロッパ人として普通の体格じゃないかなあ。エコー・フルートは使いにくそうで演奏も簡単ではないと思う」 エコー・フルート購入にたどりつくためには、まずエコー・フルートを入手して Fさんに使っていただき、演奏がそれほど難しくないことを納得していただかなければならない。これでは堂々巡りだ。
うすうす気づいてはいるのだが、やはりこの計画には無理がある。

 

                          水噴かぬ噴水めぐり駆ける子ら

2022年9月22日 幹より枝葉に目が向く日本人

前回の原稿を書いたあと、数年前に吉田秀和とドナルド・キーンの対談をテレビで視聴したことを思い出した。対談そのものは30年以上前に八ヶ岳の山荘で行われたもので、私が見たのはその再放送だった。西洋音楽の評論家である日本人と日本文学を研究しているアメリカ人が音楽や文学について語り合ったのだが、その中で吉田秀和は「子供の時から西洋音楽で育ってきた。西洋人とは違うだろうが、自分の音楽のような気持ちで西洋音楽を聴いてきた。だが日本音楽を勉強しようと思ったこともある」と切り出し、およそ以下のようなことを語った。

芸術はフォーム、形である。しかし日本音楽の形をつかまえることは難しい。それがまた魅力だ。西洋音楽にも形をつかまえることが難しいものがあるが、それはあえて難しくしている、単純にはしないという意図があってのことだ。日本音楽の場合はそう考えているのかどうかすらわからず、始めも終わりもない芸術という面白さがある。
日本の音楽と言っても能、文楽、常磐津などいろいろに分かれている。その一つ一つにとても難しいことがあり、価値の判断がそれぞれで異なる。ある分野で良しとされているものが、別の分野では通用しない。価値が逆になっていることすらある。趣味や価値の判断、演奏の流儀などが細分化され、細かく異なる。音楽や美術では日本は細かい部分へと進んで行って、そこでそれぞれの美しさをこしらえることが好きだ。しかし、一般的なもの、共通的なものを抽象して考えて行くことは得意ではない。西洋の音楽はこの点で日本音楽と逆だ。ドイツの音楽、フランスの音楽などの特徴があるにしても、基本的には昔の音楽も今の音楽も、どこの国の音楽も、あるひとつの価値で要約することができる。
ドナルド・キーンはこの見解に同意しながら、日本で芸術分野の話をすると、まず、どの流派に属していますか、と聞かれる。どうしてそんなに流派にこだわるのだろうか、と応じた。

50歳になる少し前、私は突然「日本的なもの」を勉強したいと思った。私が受けてきた学校教育の中で「日本的なもの」に触れる契機がなかったことにふと気づいたからだ。紆余曲折の末、空手道場に入門した。スポーツにも武道にも縁がなかった私には新鮮な経験だった。特に印象的だったことが流派のあまりの多さだった。道場の師範が冗談交じりに「空手家が二人集まれば新たな流派ができる」と言ったが、武道のなかでも空手はその流派の多さが目立つ。各流派が目標とする空手道の姿や流派相関図となると複雑にして微妙。その差異に深い意味を見い出す人もいれば、枝葉末節の問題と割り切る人もいた。上の吉田秀和の主張やドナルド・キーンの反応を聴いた時、それに同意しながら空手修行時代を思い出した。

こうした日本人の思考特性(根幹に目を向けるのではなく枝葉の展開を志向する)は芸術や武道に限らずあらゆる場面で発揮されていると思う。たとえば、日本には17世紀から19世紀の鎖国時代に発展した数学の体系である「和算」というものがある。これが西洋の数学の構築の仕方とあまりに異なっていることに驚く。西洋の数学はまず堅固な土台をしっかり築き、その上で抽象化・一般化を目指す意識に基づいているが、和算はいきなり具体的な難問奇問作りとそのアクロバティックな解法に関心が集中し、体系化というよりも思いつきで際限なく枝葉を延ばしていくような趣きがある。和算は(厳密性や実用性を重視する)学問ではなく、(趣味人が能力を披露し自慢し合う)芸事と考えられていたことも現代の私たちからすれば意外だが、多くの和算流派が生まれたのは意外とは言えずほぼ想像できることだ。

物事の根幹や土台に関心が薄く、具体的な事象となって現れた姿に強く執着する日本人の傾向がどこから来たものか知らないが、明治以来、西欧文化の導入や吸収に努めてきた(努めざるを得なかった)私たちには好都合の性癖だったと思う。西洋音楽に限らず、新参者として西欧から輸入した百科の学を学ぶ際に、土台はヨーロッパの先達の教えをそのまま墨守し、枝葉を日本風に味付けすることで日本人の知的営為としてのアイデンティティを主張する方針をとらざるを得なかったが、そのことに違和感を持たずに済んだのは、この方針が上の日本人的な志向と合致したためもあったと思う。
だが、この方針のまま進むことが健全かは疑わしいし、いろいろな意味で限界にぶつかる予感もある。すでにぶつかっている気もする。日本人はこの先、西欧由来の学問や芸術とどのように付き合っていくのだろうか、と私には到底解けない疑問が時おり浮かんでは消える。

                          今朝の秋足蹴の布団たぐり寄せ

2022年9月15日 ハッピー・バースデー・トゥー・ユー

今月は私の誕生月だ。誕生日といえば「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」が世界のすみずみまで定着している。この歌の原曲は19世紀末にアメリカ人姉妹が幼稚園向けに作った Good Morning to All だという。20世紀初めに誰かが歌詞に手を入れて Happy Birthday to You に変身させた。1930年代になると全米で普及し始め、ハリウッド映画やテレビ番組にのってアメリカ文化とともにまたたく間に世界中に広まった。今や中国やロシア、イランでも、あるいは半島北のあの国ですら人々がこのアメリカン・ソングで誕生日を祝っていそうな気がする。日本は非英語圏の中でいち早くこの歌を受け入れた国のひとつだろうが、3拍子でアウフタクトのこの歌を日本人が正確に歌うのは簡単ではないと思う。出だしの「happy」は弱拍で3拍子の3拍目である。次の「バースデー」の「birth」が1拍目で強拍、「day」が2拍目の弱拍になる。しかし、そのように意識して歌う日本人はほとんどいない。当然のごとく最初の「happy」を1拍目として歌い始める。それが日本人には自然だからだ。出だしをこのように歌うと必然的に、後続の前置詞の「to」や形容詞の「Dear」が1拍目の強拍になり、肝心の目的語の「you」や祝福対象の固有名詞が2拍目の弱拍になってしまう。欧米人の言語感覚、音感からするとこれはあり得ないことらしいが日本人にその語感・音感はない。
ヨーゼフ・ローゼンシュトックが、ナチス支配のドイツを脱出してシベリア鉄道経由ではるばる来日し、新響(後のN響)の指揮者に就任したのは1936年のことである。彼が来日を承諾した後でローゼンシュトックを良く知る演奏家に新響が意見を聞いたところ「日本人なら、彼の薫陶に耐えられるだろう」と言われた。脅されたのか励まされたのか。実際、着任以来、彼は厳しい指導を徹底して新響の基礎作りに大きな貢献をした。練習の際、たまたまその日に誕生日を迎えた団員がいたので即席でこの曲を指揮したところ、楽団員がそろって1拍目から演奏を始めたので指揮者はひどく驚き、彼我の音楽的基盤の相違にあらためてがく然としたという。切ない話だ。
アウフタクトは、西欧の言語で書かれた歌詞に旋律をつけることから生まれた工夫と言われる。西欧の文章の多くは冠詞で始まる。冠詞は意味的に強調すべきものではないので小節の最後の拍、つまり弱拍に置き、冠詞の後の名詞を実質的に最初の小節の1拍目、強拍の音符に当てはめた。冠詞が無い日本語を話す私たちにはアウフタクトの成り立ちも必要性も理解できないからそのことを自然に身に着けることは無理だ。不自然なものだから勉強して理屈として頭で覚えなければならない。言語習得と同時に身体感覚でアウフタクトを理解する欧米人のようなわけにはいかない。

西洋の音楽を日本人が演奏することにともなう不自然さは少なくない。上昇音型はクレッシェンド、下降音型はデクレッシェンドで、と私たちは指導される。私はこの習慣が苦手でなかなか身につかないが、それには理由があるかもしれない。山田耕筰によれば、日本の伝統音楽(民謡、長唄、義太夫、清元から仏教の声明まで)は音程を上げる時に漸弱し、下げる時に漸強する、つまり地球の重力にしたがう構造になっているという。山田耕作はこの万有引力の法則にしたがって日本人のための歌曲を作曲した。「からたちの花」にある「~白い白い花が~」の漸弱の上昇音型を思い出す。練習中のハイドンのディベルティメントの第3楽章メヌエットのトリオで、テナーは d'' の8分音符を7小節繰り返し、8小節目で5度下の g' まで下降するが、その部分にクレッシェンドが指定されている。下降のクレッシェンドは西洋音楽のセオリーに反するが私はこの方が自然に演奏できる。テナー仲間の T さんに聞くとやはり同感だと言う。重力に身を任せる感覚が日本人の身体のどこかに刻印されているのではないか。

西洋音楽には民族に固有の性格もある。ドイツ音楽はドイツ人のように重厚で理屈っぽく演奏し、フランス音楽はフランス人らしいエスプリをきかせ、イタリア音楽は派手で陽気なイタリア人風に、というのが目指すべき姿だとするなら、日本人は寄る辺ない存在にならざるをえない。
斬新かつ激しいヴィヴァルディの演奏で1990年代に世界的な名声を博した古楽合奏団エウローパ・ガランテのリーダー、ファビオ・ビオンディは自分の演奏について「…どんな音楽家も、その人となりで演奏しなくてなりません。それは持って生まれた文化的な根源に忠実であろうとすることです。私たちはイタリア人ですから…とても外交的で技巧を重視し、能力を見せることを尊びます。その文化から離れずにいるべきだと思うのです…」と述べた。奇を衒った演奏ではなく、イタリアの文化的根源に忠実な演奏であったからこそ全世界の音楽ファンを魅了したと胸を張ったのである。謙遜に聞こえるが、究極の自慢話だ。日本人が「自らの文化的根源に忠実」であることと西欧の音楽を正統的に受け容れることは両立しない。異質な二つの文化の間には越えがたい壁がある。しかし、異質なものと混交しない純粋培養の文化は存在しなかったし、これからも存在しないだろう。日本の文化と西欧文化が接して相互に影響しあうことは歴史的必然だ。私たちが西洋音楽を受容するプロセスは、私たち自身の文化的根源(の一部)の喪失または西洋音楽の変質を伴うことが不可避で、多くの場合はその両方を含む。そのことに自覚的であり続け、ときおり感じるかもしれない違和感をいとおしく大切にすること以外に、アマチュアの私たちに何ができるだろうか。

仕事でグルノーブルに行った時のことである。何日間かの会議が終わり、フランス人が私をグルノーブルの街に連れ出してくれた。古く落着いた街並みのところどころに時節柄かボジョレー・ヌーボーの特設ワイン売り場が控え目に店を出している。なんでもお祭り騒ぎにしてしまう日本とはずいぶん違う、などと思いながら歩くうちに小粋なレストランに到着。こういう雰囲気が私は苦手だ、悪い予感がする。テーブルに案内されると、さあ、まずは乾杯しましょう、このワインは地元産の自慢できるものです、楽しんでください、とフランス人がジェスチャーたっぷり、手を振りまわしながら話す。だが超甘党の私はアルコールが飲めない。状況を察したフランス人は、ではワインはやめてぜひ料理を試してください。この辺はジビエが有名です。今日はウサギかな、それともシカだろうか、えっ今日はイノシシだって? ではイノシシをどうぞ。だが私は肉が嫌いだ。ましてイノシシなんて獣を食べるのは想像を絶する。ガックリしたフランス人は、そうですか、でも大丈夫、チーズがありますよ、これも地元名産です。残念ながらチーズも私の好物ではないが、こうなったら酸味のきいたチーズを極甘のチーズケーキと思うことにしよう。にっこり笑いながらなにがなんでもチーズを胃袋に押し込もうと覚悟した。だが、出てきた高級(?)チーズの何と強烈にクサいことか。せっかく胃袋が覚悟を決めてくれたのに私の鼻が…
食欲は人の世界観を規定する。私はルイ14世お抱えの音楽家たちがベルサイユ宮殿で奏でた音楽が好きだ。しかし、フランス語を解せず、ワインの香りに辟易し、ジビエと聞くだけで胸が悪くなり、チーズで鼻が曲がり、ぼた餅には目がない私にフランス音楽が「正統的に」理解できているとは我ながらとても思えない。私はリュリを誤解し、私が演奏するオトテールはフランス人があきれるほどぼた餅的に訛っている。
今でも「グルノーブルの夜」を思い出すと、好意的だったフランス人の困惑顔がよみがえる。私の表情もフランス人には心細く見えたはずだ。音楽と違って顔の表情が持つ意味は万国共通らしいから。

 

                              ビル街の隙間駆け抜く野分かな

2022年8月18日 柱状リコーダーの神秘

早い時間に目覚めてしまったその朝、ラジオのスイッチを入れると軽快な響きが聴こえてきた。ひなびた音色のリコーダー合奏と太鼓が古風な舞曲を演奏している。やがて音楽が終わって解説者が「ただいまの演奏は…によるチュージョー・リコーダーの合奏でした」と説明する。「…上下に平らなフタがついた円筒管のリコーダーで、テーブルの上に載せて演奏する…」との紹介もあったので「チュージョー」は「柱状」であるらしい。でも「柱状リコーダー」は聞いたことがない。「柱状リコーダー」をネットで調べたがわからない。英語を想像して検索したところ「columnar recorder」という楽器があることを知った。製作者は16世紀の南ドイツで活躍したと伝えられるハンス・ラウフ・フォン・シュラッテンバッハ(Hans Rauch von Schrattenbach )。「Säulenflöte」や「flûte colonne」というドイツ語やフランス語がもともとの呼称のようだが、ルネサンス時代の稀少で神秘的な楽器で、その使用法や歴史の詳細は不明という。 オリジナルは世界にたった4本しか残されていない由(5本という説もあるようだ。うち1本は日本人が所蔵)。どんな形をして、どんな音を出す楽器なのか? 以下が参考になる。

https://www.youtube.com/watch?v=AyAKNGMuZ_0&list=RDAyAKNGMuZ_0&start_radio=1
https://www.youtube.com/watch?v=_P5IptzPjO4&t=105s 
https://www.youtube.com/watch?v=_5RAhIiZQdU 


3番目の例はパリ地方音楽院(CRR)の学生たちによる演奏で、アルトを吹いているのは野崎剛右さん。野崎さんは、何年か前に吉澤先生の代講で みなとリコ を指導してくださったことがある。吉澤先生が主宰する合奏団 La  Strada のメンバーでもあるからご存知の方も多いだろう(たまたま、今日のレッスンで吉澤先生が野崎さんを話題にされた)。その後ヨーロッパに渡って研鑽を積まれていると聞いたが、この映像によれば、2018年にはパリで勉強中だったようだ。
柱状リコーダー特有のまろやかな音色が美しい。外から見るとまっすぐな円筒管だが、実は内部で管が折れ曲がっているらしい。そうなると指孔はどのように管体とつながっているのだろうか。掃除もずいぶん面倒なことになりそうだ。

18世紀イギリスの音楽学者チャールズ・バーニーの有名な旅行記に、彼が1772年7月にアントワープを訪問した時の模様が記録されている。バーニーは川沿いの倉庫の大きな箱の中に30‐40本のリコーダーがあるのを見つけたのだが、その中に「変わり種」リコーダーがあった。カスパール・ラオホス・スクラッテンバッハ(Caspar Rauch Scrattenbach)なる製作家(前出のシュラッテンバッハさんと同一人物だろうか?)が作った楽器で、100年以上前までは使われていたが、現在は誰一人としてこの楽器を演奏できる者がいない、と現地の人がバーニーに説明した。現代のいくつかの記述によれば、この楽器こそが柱状リコーダーということになっているようだが、楽器の形状に関するバーニーの説明を読むと、柱状リコーダーとは異なる楽器のようにも思える。

Youtube の演奏例は立奏と座奏だが、楽器の下端が平らで見るからに床やテーブルに置かれるべき形状なので、持ち上げて演奏すると、どっしり落ち着いているはずの底がゆらゆら動いてこころもとない。今から30年ほど前、開発直後の携帯電話は1kg近くあり、底は携帯されるより据え置かれることを前提にした形状だった。実は携帯向きではありませんよと底面が本音を語る携帯電話を無理やり携帯させられた人々のとまどいがちな通話姿を思い出す。携帯電話を机に置くと話をするのが多少不便になる。柱状リコーダーをテーブルに置くとさらに厄介だ。腕や指の動きが束縛されて演奏しにくいし、楽器の長さと奏者の身長に応じて異なる高さのテーブルや椅子を用意しなければならない。とても不便だ。本当に卓上に置いて演奏していたのだろうか。それはこの楽器が持つ特徴的な音色とどんな関係があるのか。どんなレパートリーがあったのか。何もかもが謎めいて神秘的だ。

柱状リコーダーを思い出したのは、私たちが使っているリコーダーより柱状リコーダーの古風な響きの方がシャコニーにふさわしいと感じたからである。パーセルは1659年生まれでバロック前期の作曲家だからルネサンスの楽器は場違いだろうが、「時代遅れで特異体質」のシャコニーには許されるのではないか。調べてみると柱状リコーダーのコピーを作っているフランス人製作家がいるので、お金さえ出せば(1本が数十万円!)楽器は入手できる。想像だけなら、全団員がこれを持つことが可能だ。20名がそれぞれの楽器のサイズと自分の身体の大きさに合わせて特注したテーブルを譜面台の手前に置き、その上に柱状リコーダーをうやうやしく載せ、体をいくぶん前かがみにして愛器を抱え込む、あるいはこれにしがみつく。劇音楽を演奏するのにふさわしく芝居がかった劇的な光景に観客が息をのむ。そしてやがて20本の柱状リコーダーが奏でるシャコニーが会場をドラマチックで悲劇的な情緒で満たす。日本を知らなかったかもしれないシュラッテンバッハやパーセルが想像もしなかった三百年後の東洋の島国の光景だ。

 

                      つけ爪がつけ睫毛なほすあつさかな

 

2022年7月21日 早わかり偉人伝 ハイドン
10月の発表会で私たちはハイドンのディベルティメント Op.1-2(弦楽四重奏曲第2番 Hob.Ⅲ-2)も演奏することになった。音楽室の壁の肖像画以外に私たちがハイドンについて知っていることはほとんどなさそうだ。リコーダー音楽には縁が薄い大作曲家なのでちょっと寄り道して伝記を読んでみよう。

『早わかり偉人伝 ハイドンと弦楽四重奏』
1755年冬 ヴァインツァール
ウィーンの貴族の集まりには音楽が欠かせません。ドナウ河のほとりの村ヴァインツァールにお城を持つフュルンベルク男爵も大の音楽好き。建物の四つのかどに高く丸い塔がそびえるすてきなお城の音楽室で、男爵が演奏を聴いています。ヴァイオリンを弾くのは召使いと村の司祭。二人とも音楽は趣味なのにとてもじょうずです。それにヴィオラのハイドン(フランツ・ヨーゼフ)とチェロのアルブレヒツベルガーが加わっています。こちらの二人は若い楽師でお金がないかわりに元気はいっぱい。冬の夜は寒くて短く、楽しい時間はあっという間にすぎてしまいました。書斎で男爵が司祭とお話をはじめたところです。
「フランツ・ヨーゼフは弦楽器、管楽器、鍵盤楽器、なんでも自在に弾きこなすので驚くけれども、無論それは彼の楽才のごく一部。あの若者には作曲の才能があります。それも私の目に、ではなくて耳に狂いがなければ桁外れの才能と言っていい。彼の即興演奏を司祭もお聴きでしょう。実のところ、最近の私は自分のヴァイオリンより4人の演奏を聴く方が深い高揚感に浸ることができます。それはひとえにフランツ・ヨーゼフの途方もない天才と、それが創り出す音の世界に魂を奪われたせいです」
「さよう。深い情緒をたたえて涙を誘うアダージョから目もくらむばかりの激しいプレストまで、緩急自在の演奏と豊饒なファンタジーには正直なところ度肝を抜かれます。ほとんど神技というべきです」と司祭は胸の前で小さく十字を切りました。二人ともむずかしい言葉でお話しするのが好きなようで、これだからおとなはめんどうです。
「それにしても男爵、フランツ・ヨーゼフはまだ二十歳くらいにしか見えませんが、どんな素性の若者なんでしょう?」
「ではここだけの話、個人情報を開示しましょう。ハンガリーに近い小さな村に生まれた彼は、音楽学校の校長だった叔父に才能を認められて音楽教育を受けました。やがてシュテファン寺院の聖歌隊に入って頭角をあらわし、知らぬ間にカストラート候補の筆頭に。驚いて押っ取り刀で駆けつけた父親のおかげで例の手術台に載せられるのを免れました。司祭の前ですが、神の名のもと穏やかならぬ企てもあるようですな。変声期で聖歌隊をやめてからはあちこちで音楽を教える放浪の渡り鳥。23歳になった今年、私が彼を雇いました。それからは司祭もご存知のとおりです。ところで司祭、フランツ・ヨーゼフに作曲をさせてみようと思っているのですがいかがでしょう? わが館の4人の楽団のためにオーダーメードの曲を揃えたいのです。なにしろヴァイオリン2本、それにヴィオラとチェロの編成は目新しくてロクな曲がありませんからね」
「それはとても良いお考えです、男爵。でも、アマチュアの私のために手加減してくれるようクギをさしておいてください。手綱をゆるめると、あの若者はあっという間に私たちの手の届かない遥か彼方へ駆け抜けて行ってしまうでしょう」
「演奏容易にしてなおかつ味わい深い作品ですな。お任せください。厄介な注文ほど彼はうれしいはず」

1765年春 アイゼンシュタット
フュルンベルク男爵が優雅に音楽を楽しめたのは男爵がとてもお金持ちだったからでした。それなのに、ふと気がつけば金庫の中はスカスカ。困った。これではみんなにお給料を払えません。ハイドンにはもっと音楽の世界でえらくなって欲しいとねがった男爵は、ハイドンをやとってくださいとモルツィン伯爵に手紙を書きました。運よく伯爵家の音楽家になったハイドンですが、あっと言う間にモルツィン家もびんぼうになってしまい、ハイドンはまたプー太郎です。でも1761年、皇帝と同じくらいお金持ちの大貴族エステルハージ伯爵家に若い副楽長としてむかえられたのです。29歳でした。なんて幸運なんでしょう。偉人が困るとかならず助けてくれる人がいるものです。才能があっても助けてくれる人がいないと偉人ではなく奇人になってしまって人生がまったく変わります。でも安心しましょう。普通の人はこれといった才能を持っていないから、助けてくれる人がいてもいなくても人生はほとんど変わりません。
フュルンベルク男爵の注文で作った四重奏曲がみんなからほめられたので、ハイドンはその後も作曲しました。そうしてたまった四重奏曲をこの年フンメル社から出版しました。アイゼンシュタットの宮殿で、エステルハージ家のご主人さまニコラウス公が、広間を通りかかったコンサート・マスターのルイジ・トマッシーニを呼びとめました。
「ルイジ、副楽長の手になるディベルティメント集が話題になっておる。余も鼻が高いぞ」
「私の技量に合わせて副楽長が作曲してくださった曲も入っております。私たち楽団員にも大きな記念になる出版にご尽力をいただいて伯爵には感謝の言葉もございません。」
「だが余には不満がある。ヴァイオリン2本、ヴィオラとチェロという珍しい編成の曲集にディベルティメントというありきたりのタイトルはいかがなものか。陳腐に聞こえるだろう。「新しき酒は新しき皮袋に盛れ」と申すではないか。人目を惹く看板が必要なのだ。フランツ・ヨーゼフには自分が新たなジャンルを創り出した自覚がないのか、あるいは野心が足りないのか。わからぬ」

1801年秋 ウィーン
ハイドンがエステルハージ家で仕事をするようになって40年がすぎました。音楽嫌いの前のご主人さまからは冷たくされましたがハイドンはじっとがまんし、今年で69歳。コンサート・マスターのルイジ・トマッシーニもシワシワのおじいさんになり、長い間いっしょにいたので音楽観(こういう時におとなが使うコトバを私も知ってます。えへん!)がすっかりハイドンに似てきました。類似してきたのです。この年、36年前にディベルティメントとして出版した曲集を、それより後に作った作品もいっしょにしてプレイエル社から再出版することになりました。今度こそ、弦楽四重奏というジャンルを作ったことを自慢したいので、やる気がなさそうな《ディベルティメント》ではなく《作曲者によって承認され、出版順に整理された弦楽四重奏曲集》と重々しくえらそうなタイトルにしました。ウィーンの宮殿の音楽室でルイジがご主人さまのニコラウス2世に出版祝いのあいさつをしています。
「楽長が弦楽四重奏という新たなジャンルの生みの親、育ての親であることが今回の出版で明らかにできました。楽長だけでなくご当家も音楽の歴史に不朽の名を刻むことになるでしょう。ご同慶の至りです、伯爵」
「うむ。この楽器編成の新規性と無限の可能性にふさわしい新たなタイトルが必要だったのだ。フランツ・ヨーゼフもやっとその気になったか。それにしても不思議な男だ」
「先々代のニコラウス公も35年前に同様のことをおっしゃいました。楽長は、ご自分がなし遂げたことを派手に飾り立てることに関心をお持ちではありません。この点では、国の誉れと言われる大作曲家になられた今も、35年前とお変わりありません。数百年後、どこか異国でご自分の作品が演奏される情景を想像なさって、ご自分の音楽は、時代や言葉や風習が違う人々の間でも愛されるはずとお考えなのかもしれません」
「注文どおりの音楽を作って指示どおりに演奏するのが楽長の仕事とするなら、フランツ・ヨーゼフはもはや楽長とは言えまい。我らが誇りとするあの老人は棺桶に入っていない片足でいまだに明日に向かって歩き続け、そして新世代の楽長になったのだ。その新楽長像のおかげでハイドンの名前は数百年後もあまねく知られ、逆にエステルハージ家が彼の引き立て役として辛うじて微かな光を当てられるだけの存在になる、などとバカを言い出す者もおる。歴史の試練に耐えられるのはもちろん…」

「歴史の試練」はえらい人たちがカラ威張りする時に使うコトバです。でも、その試練に最初にぶつかったのはハイドンでも伯爵家でもなく楽譜でした。初版にも再版にもかいぞく版やまちがいがあり、後の世の演奏家をとても困らせたのです。
プレイエル社版から3年後、1804年にハイドンはエステルハージ家の楽長をやめました。その4年後にはトマッシーニが死に、そしてその次の年、「弦楽四重奏の父」で「交響曲の父」でもあったハイドンは、ウィーンに攻め込んできたナポレオン軍の大砲の玉に当たって死ぬのを怖がりながら老衰で死んだのでした。77歳でした。完。

というわけで、私たちの課題曲はフュルンベルク男爵の注文で作った四重奏曲のおそらく2番目で、ハイドンがハイドンになるための道を見つける契機になった瑞々しく溌剌とした曲である。私たちもフュルンベルク男爵に聴かせるつもりで演奏しよう。そうすれば みなとリコ も何かを見つけることができるかもしれない。
なお、「Op.1-2」は初版出版時に作曲者がつけた番号だが、ハイドンによる作品番号は恣意的で網羅性に欠ける。そこで20世紀になってオランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケンが体系的な番号(Hob. ホーボーケン番号)とともに全作品を整理した。Hob.Ⅲは弦楽四重奏曲のカテゴリなので「Hob.Ⅲ-2」は弦楽四重奏曲の第2番を意味する。

                古書店のカール・マルクス黴(カビ)苦(にが)し

 

2022年6月16日 ごくらくトンボウ漂流記

学生時代、「どくとるマンボウ」シリーズを愛読した時期があった。 とりわけ印象に残っているのが、当時の自分の境遇に近かった『どくとるマンボウ青春記』だ。戦中戦後の混乱期に北杜夫が過ごした旧制高校・大学の疾風怒濤の学生生活を描いたエッセイである。医師への道を指示する父親に威圧されながらも思索や文学に傾倒する著者は、試験のたびに綱渡りの日々を送る羽目になる。答案用紙に解答の代わりに苦しまぎれの詩や短歌を書きつけた。それを楽しみ、感心した教師が答案用紙を保管していたので、何十年も経ってから北杜夫は自分の「作品」をエッセイの中で紹介することができた。物理学の試験の答案用紙に、

 恋人よ
 この世に物理学とかいうものがあることは
 海のやうにも空のやうにも悲しいことだ

で始まる長い詩を書き、意味不明の数学の問題には短歌で応えた。

 怠けつつありとおもふな小夜ふけて哲学原論をひた読む我を

数学科で冴えない低空飛行を続けていた私は情けなくも共感したが、詩で数学の教師を感心させる才能も勇気もなく、「どくとるマンボウ」の若々しく大仰な文体を模写して書いた『ごくらくトンボウ漂流記』を同人誌に投稿してお茶を濁していた。

北杜夫の本名は斎藤宗吉、歌人斎藤茂吉の次男である。上にあげた短歌は父親の作品、

 あやしみて人はおもふな年老いしショオペンハウエル笛ふきしかど

のパロディと思った。希代の厭世哲学者ショーペンハウエルでさえ年老いても笛を吹いている、なんらあやしむことではない、という歌である。後になって知ったことだが、この歌に続けて「俺だって…」という茂吉の声なき独白を聴き、さらに、30歳近くも年下の永井ふさ子との秘めた恋愛が進行中であったことを考えると意味深長な歌になる、という解釈もあるようだ。

 

ともあれ、茂吉の意味ありげな短歌に勝手に引き合いに出されたショーペンハウエルだが、茂吉と違って彼の女性観は母親との確執からか手厳しいものになり、『女について』を発表して以来「女性の敵」と目されるに至った。ショーペンハウエルの哲学は浮世離れしたペシミズムと言われるが、きわめて現実的な警句をたくさん残したのも彼である。


「富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が渇く。名声も同じだ」
「我々の肉体が衣服に包まれているように、我々の精神は虚偽に包まれている」


など。学者を志す前の彼は、父親の跡を継いで商人になる修行をしていた。その経験がこうした実際的な教訓となって生きたということだろうか。
ベルリン大学の講師になったショーペンハウエルは、哲学界の大御所ヘーゲルを「酒場のおやじのような顔」と嫌悪して彼の講義の時間に自分の講義を設定して挑戦状をたたきつけた。しかし、二百人をはるかに超える学生が押し掛けたヘーゲルの講義に対して、裏番組のショーペンハウエルの受講者は五人だけ。彼は茂吉の歌にあるようにフルートを好み、数学よりも哲学よりも、音楽こそ人を教えるところが多いと考えていた。晩年のショーペンハウエルは午前中の思索の時間が終わると子供のころからの習慣通りフルートを吹いて気分転換した。夕方ともなれば可愛がっていたプードル(「世界精神」という名前をご主人様から頂戴した)をともなって散歩に出かけ、ときおり意味不明の大声を発しながらフランクフルトの街を歩き続けた。

同世代の学生の多くがショーペンハウエル熱にかかった。私も、偏屈ぶりが際立つ奇人哲学者にあこがれ、彼がどのような音楽の趣味を持っていたかについても興味を持ち、そしてその好奇心はやがて音楽を愛好した他の哲学者にも広がった。その時に知った、ショーペンハウエルの後継者ともいわれるニーチェの痛ましいエピソードを覚えている。1889年、45歳のニーチェは旅先のトリノの街角で突然精神錯乱の発作を起こす。以後、清明な意識を取り戻すことなく十年あまり母と妹に世話をされて55歳で死去。発病後、母親が知人の家を訪ねようとすると子供のようにニーチェが後を追ってくる。母親は知人の家のピアノの前にニーチェを座らせ、いくつかの和音を弾いて聴かせる。すると彼は、驚くほど美しく繊細な手で何時間でもその和音を即興で変奏し続けるので、そのあいだ、母親は安心して知人と話ができた。

最近、『どくとるマンボウ青春記』を書棚に見つけた瞬間、これらの記憶がバラバラと目の前に広がり、ニーチェに気をとられてショーペンハウエルの音楽趣味が未解明だったことも思い出した。あらためてショーペンハウエルの伝記を読み、ワグネリアンだとばかり思い込んでいたこの奇人哲学者が、実際にはワーグナーは嫌いで大のロッシーニ・ファンだったと知った。ロッシーニのすべての曲をフルートで演奏できるように編曲していたというから筋金入りだ。
数十年ぶりに宿題を済ませてすっきりしたが、それだけでなく、ショーペンハウエルのロッシーニ好きはこの際とても好都合だ。「すぎた音楽の日々」の今月のこの文章は北杜夫の思い出話で始まり、斎藤茂吉、ショーペンハウエル、ニーチェ、ロッシーニと目まぐるしく変わって話がどこに向かうのか分からない。肝心のリコーダーも姿を見せない。しかしロッシーニと聞けば安心。リコーダーの話題で締めくくることができる。ロッシーニが豪華な装飾のついたリコーダー、ロッシーニ・リコーダーを所蔵していたことは知る人ぞ知るエピソードだ。

(ここに写真がありますが、スマートフォンでご覧の場合は写真がこのページの最下段に

 移動しているのでご注意ください。)

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​               ロッシーニ・リコーダー

恰幅の良い肖像写真でお馴染みのロッシーニにはこの派手なリコーダーが似合う気がする。指孔の周りにもゴテゴテと飾りがほどこされているリコーダーは演奏しにくそうだが、卓越した料理人でもあった彼の、赤ん坊の手をそのまま大きくしたような(と勝手に想像する)手と指は並外れて器用だったことだろう。楽器は残っても音は残らない。だが「ナポリのモーツァルト」と呼ばれたロッシーニなら繊細で美しい音楽をこのリコーダーで奏でたに違いない。

          あはれみて人はおもふなたどたどし飽かずエチュウド笛ふきしかど

2022年5月19日 アマチュアには好都合で不都合な変奏曲 

10月の発表会でヘンリー・パーセル(1659-1695)のシャコニ―(Chacony)を演奏することになった。吉澤先生の推薦曲だ。Chaconyという聞きなれない英語の意味を調べて「時代遅れの(obsolete)形式のシャコンヌ」とか「特異体質の(idiosyncratic)シャコンヌ」という説明を見つけた。いまひとつ意味が分からない。どこが「時代遅れ」で何が「特異体質」なのか。だが、ここはひとまず「シャコニ― = 時代遅れで特異体質のシャコンヌ」で無理やり納得したことにして話を先に進めよう。シャコンヌはバロックを代表する変奏形式のひとつだが、サラバンドなどと同じく新大陸に起源を持ち、大航海時代にイベリア半島に伝えられ、ヨーロッパ各国の風土と融合しつつ発展した。パーセルのこの曲は何かの悲劇のための劇音楽と考えられているそうで、ヴィオール合奏のオリジナルをベンジャミン・ブリテン(1913-1976)が現代の弦楽合奏用に編曲した。私たちが演奏するのは、さらにそれをリコーダー合奏用に編曲したバージョンだ。パッヘルベルのカノンなどがそうであるように、テンポを変えると曲想が大きく変化しそうなので、どんな面白い演奏になるか期待が膨らむ。

 

西洋音楽は変奏という形式が好きらしい。シャコンヌとほぼ同時代の変奏形式にディミニューション(Diminution)がある。縮小という言葉の意味のとおり、たとえば4分音符を8分音符、16分音符という風に小さな音価に分割して変奏するので分割装飾とか装飾変奏などと翻訳されることもある。変奏が進むにつれて音価が小さくなり指の動きも早まる。このディミニューションで有名なリコーダー独奏曲集が、ヤコブ・ファン・エイク(1589/90 - 1657)の『笛の楽園』である。ファン・エイクはオランダ、ユトレヒトのカリヨン奏者で、オルガンやリコーダーも得意だった。盲目の彼は物事を分析的に考える気質の人だったらしく、鐘の形状と倍音構造の関係を研究していたと伝えられる。教会の隣の公園で、当時の流行歌や詩編の旋律をリコーダーで演奏し、華麗なディミニューション技法による変奏で道行く人たちを魅了した。私たちにとってリコーダーは柔らかい音色と小さな音量が特徴的で、室内楽に適した楽器である。しかし、ファン・エイクのリコーダーは戸外で先を急ぐ通行人の足を止めさせて聴衆にしてしまうダイナミックで説得力に満ちた音楽を奏でる楽器だった。

公園で演奏していた曲を採譜し、17世紀中ごろに2巻の楽譜集として出版したのが『笛の楽園』である。150曲近い小曲から成る大作で、「涙のパヴァーヌ」、「アマリリ麗し」などが有名だが、全曲を聴く機会は稀だ。2016年、江崎浩司さんが、日本人で初めて『笛の楽園』の全曲録音を始めた。以来これまでに7枚のCDを発表し、最後のvol.8がちょうど来週、5月25日に発売される。江崎さんは昨年12月に50歳の若さで思いがけず突然に旅立たれてしまったから、最終巻の発売をご本人自らの目と耳で確認することは叶わない。亡くなる前に全曲の録音を終えていたことは天の配剤と言うべきか。

 

さまざまな形式がある変奏曲だが、共通しているのは、エッセイを拾い読みするように好きな部分だけつまみ食い演奏できることである。練習にも発表会にも向いている。臨時記号が5つ以上の調性を省略するスケール練習と同じで、難所を避ければそれだけ気分が明るく前向きになれる。だから変奏曲はアマチュア奏者にとって好都合な形式だ。しかし同時に、変奏のクライマックス部分は ― ここが最も聴かせどころなのだが ― たいてい無慈悲なほどに難しく、どんなに練習したとしてもなめらかに演奏できる気がしない。流麗な音楽の世界から自分は永遠に締め出されていることを思い知らされて落ち込む。したがって変奏曲はアマチュア奏者には不都合な形式である。

とても幸いなことだが、パーセルのシャコニーは変奏曲に共通する上の不都合さを免れている。私たちにも省略なしに全曲演奏可能だ。この歓迎すべき例外的性質こそが「時代遅れで特異体質」と形容された理由、ではおそらくないだろうが、そう独断的に解釈すれば Chacony という聞きなれない英語が気分よく納得できる。

 

                         蟻一匹足早に過ぐアスファルト

2022年4月21日 甲府銀座の摩天楼

10年以上昔のことだが、社歌に関心を持って調べたことがある。(私の故郷の)甲府に出来た最初の百貨店の店歌の歌詞をたまたま知ったことがきっかけになった。昭和の初め、中央線の電化が進んで東京と山梨の時間距離が短縮されると東京の大手百貨店が甲府で出張販売を始めた。迎え撃つ甲府の商店主たちは危機感を強めて「御買物は是非地元から お互ひに市を愛しませう 市の繁榮に協力しませう!」と市民に呼びかけた。商売がたきを返り討ちにしようと甲府銀座に「摩天楼」と称して七階建ての甲府ビルヂングを建て、昭和12年に松林軒百貨店を開業した。その店歌は以下のようである。

 

ああ七層の 高殿晴れて / 歓喜にもゆる あしたの勤め / 夜は星影を いただき帰る / 文化の戦士 若人われら

 

絢爛きそふ 百貨の華に / 心のかをり ゆかしくこめて / 商ひ勤め なりはひ励む / 希望の天使 乙女よわれら

 

たがひに睦み 店是を守り / 寄せくる顧客に 捧ぐる奉仕 / 声価はやがて 芙蓉の嶺と / 仰ぐも楽し 青春われら

 

緑ぞふかき 松林軒の / 見よ繁栄を 雄々しく荷ひ / 使命にいさむ 大行進は / 歩調も嬉し いざわが店友ら

 

この歌詞は百貨店の経済的役割だけでなく文化的な使命と、そこに働く店員の喜びや誇りをまぶしいばかりに謳いあげている。社歌に胸を張る店員に合わせて、顧客も家族揃っておしゃれをし、百貨店の重厚な玄関ドアを押し、食堂で洋風ランチを楽しみ、屋上の天照大神宮に手を合わせ、動物園に歓声を上げ、そして買い物をした。初めて見るエレベータに下駄を脱いで乗り込む客もいた。華やかでささやかでもあったこの空間はわずか8年の後、昭和20年の甲府空襲で灰燼と帰してしまう。一面の焼野原に外壁だけ残して建ち続けた松林軒を写真で知る私は、昭和初期の百貨店に集った人々のひたむきさ、無条件に明日を信じた歌詞のナイーブさを痛切に感じ、調べてもたどりつけなかったこの店歌の旋律に思いを馳せた。この歌詞を運ぶ旋律はどんな響きだったのか。

 

私たちがリコーダーで演奏する音楽にはほとんどの場合歌詞がない。楽譜が唯一の情報源である。テンポ、曲想、フレーズの区切り、クライマックスの場所などを楽譜から読み解くことになるがそれは簡単ではなく、解釈に幅が生まれて個人差も出てくる。それが面白いという見方もあるけれど、歌詞があれば解釈がずいぶん具体的になる。最近「アルデバラン」や「少年時代」の楽譜が配られたので、久しぶりに歌詞の世界を演奏に反映させられると期待していた。しかし、ふと気づけば10月の演奏会までレッスンの機会は大して残されていない。月2回のレッスンに慣れてしまっていたが、今月からはその半分の頻度だ。倍速で進む時間を追いかけて10月までに課題曲を征服しなければ。冬の夜空のアルデバランは本当の冬が来るまでしばらくお預けだ。

 

                      花筏縁(へり)から手が出る屋形船

2022年3月17日 作曲家で歌手でヴァイオリン奏者でチェンバロ奏者で…本業は外交官

マッテゾンの「3本のブロックフレーテのためのソナタ第1番 ヘ長調」の第3楽章、ゆっくりしたジーグのレッスン。マッテゾンはバッハやヘンデルの同時代人だが日本ではあまり知られていない。作曲家としてより調性格論を唱えた音楽学者として後世に名を残した。彼は、各調がそれぞれ固有の性格を持つと主張した。たとえば、私たちが今取り組んでいるソナタはヘ長調だが、この調は「世界で最も美しい感情を表現することができる。洗練をきわめる。寛大、沈着、愛、徳、自然な物腰、比類のない能力。長調であるのに、この上なく愛情のこもった表現ができる。」とされている。こうした言説は音楽修辞学の範疇に含まれるが、音楽修辞学はバロック時代に盛期を迎えたあと衰退し、ヨーロッパでもその伝統や教育が現代に引き継がれなかったと聞く。マッテゾンの主張は今やヨーロッパでも常識の外に追いやられてしまったか。現代人がマッテゾンのような聴き分けを行うことが難しい理由は調律法の相違(当時の古典調律は調性によって音階が不均一なので性格の差があり得るが、現代の平均律では原理的に調の差は出にくい)や楽器の特性(バロックの管楽器はクロス・フィンガリングのせいで特定の音が暗く不安定な音になるので、その音が主要な音になる調は明るくなれない)に帰せられることが多いようだ。現代日本人も、平均的聴覚の持ち主ならマッテゾンの調性格論になるほどと膝を打つのは難しい気がする。


マッテゾンはヘンデルとの決闘話でも知られている。1704年12月、ハンブルクの歌劇場での出来事。マッテゾンが舞台で歌いおえ、オーケストラでチェンバロを弾いていたヘンデルのところへやってくると、彼を脇へ追いやって自分で弾き始めた。マッテゾンは作曲家で歌も能くしたが、さらにチェンバロの名人でもあることを誇示しようとしたらしい。ヘンデルは侮辱されたと腹を立てて決闘になった。大立ち回りのすえ、マッテゾンの剣の切っ先がヘンデルの上着の金属製のボタンを突いて折れてしまったので「勝負なし」ということになったと伝えられる。どこまでが史実なのか分からない。虚実ないまぜのこのエピソードにもとづく寸劇が Youtube で公開されているが、殺し合いを演じた二人の巨匠が最後は仲良く酒を酌み交わして談笑している。
https://www.youtube.com/watch?v=Un6pOjwDbqk

緻密だが現代人が共感するのは難しそうな調性格論や龍頭蛇尾的な決闘エピソードからは《没頭すると思いが先鋭化するエキセントリックな音楽家》のイメージが喚起される。しかし、私たちが今日のレッスンで練習したソナタはどうだろうか。バロックの様式に則った穏やかな佳作で、変人作曲家がその風変わりさをことさらに発揮した作品とは思えない。音楽史の教科書の行間から浮かび上がる人物像と彼の手になる作品の間に落差がある。音楽学者で作曲家で歌手でヴァイオリン奏者でチェンバロ奏者であっただけでなく彼は作家ですらあったが、驚いたことに本業は外交官だったという。「能力が多方面にわたりすぎ、気も多すぎる外交官」は外交交渉の要領で、さまざまな役割をそれぞれそれらしく演じたということなのか。マッテゾンさん、あなたはいったい誰?

今日はみなとみらい教室の最後の日。4月からは杉田劇場での日々が待っている。
                        みらい過ぎすぎたが未来春の笛

2022年3月3日 収容所のラッパ付きヴァイオリン

昨年末から年初にかけて新宿の平和祈念展示資料館でシベリア抑留に関する企画展が開催されていた。シベリア抑留は酷寒、飢餓、重労働の三重苦によって数万の日本人が命を落とした悲惨な歴史として語られるが、それとは異なる視点、日本人とロシア人との文化的交流という面からこの出来事を研究している人々がいる。この展覧会はそういう立場で企画されたものだ。たとえば、抑留者たちはさまざまな楽器を調達あるいは自作して日本の歌やロシアの音楽を演奏し、雪と氷の原野でいっときの慰藉を得ていたという。そんな心和む時間があったのか。話が逸れるが、ハバロフスクの収容所にいた三波春夫は軍隊の苛酷さや戦争の悲惨さを主題とした浪曲を創作して口演した。抑留者たちに大好評を博した結果、労働を免除された「浪曲上等兵」三波は「民主浪曲」を引っ提げて各地の収容所を巡業した。確かに《演芸》の時間はあったのだ。抑留者たちが作った楽器の大半は失われてしまったが、ラッパ付きヴァイオリンが復元された。木材不足で小ぶりのヴァイオリンしか作れず、その小さ過ぎる音をラッパで補強したという。奇想天外な創意工夫に驚く。

 

(ここに写真がありますが、スマートフォンでご覧の場合は写真がこのページの最下段に

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これは弦楽器か管楽器か、いやいっそ管弦楽器と呼ぶべきか。収容所に響くラッパ付きヴァイオリンの音色に抑留者たちは生き抜く力を得、そしてすすり泣きもしただろう。この企画展とは別の資料によればギター、マンドリン、三味線、笛、太鼓なども手作りしたという。異形で粗末な作りの楽器が今の私たちには遠く及ばない命がけの緊張感に満ちた音楽世界を創り出した。

 さて、今日のエチュードはブースケの奇想曲第7番。幸いなことに平和で豊かな国に生きる私の楽器は異形でも粗末でもない。それどころか、私の腕前には過分に立派なリコーダーなのだが何かが足りず、演奏が冴えない。まずアーティキュレーションが単調なのが良くない。楽譜にはスラー、スタッカートが書かれているだけだが、日頃の練習で指導されているように順次進行はレガート気味に、跳躍箇所は音を区切って演奏するだけで多分もっと音楽らしくなる。なぜこれができないかと考えると、臨時記号に気を取られるせいだろう。臨時記号はエチュードのエチュードたる所以、目と指と息を慣らすしかない。創意工夫は楽器ではなく私の演奏にこそ求められている。

 

                        ふぞろひのピアニカに乗り春一番

2022年2月17日 難しすぎる半音階

「おんがくしつトリオ」というグループがリコーダー、鍵盤ハーモニカ、ピアノの合奏でさまざまなジャンルの音楽を聴かせてくれる。この編成のオリジナル曲はほぼ存在しないから、ほとんどが彼ら自身による編曲。初めてこのグループの演奏を聴いた時からファンになったのは、達者なリコーダーもさることながら鍵ハモが印象的だったからだ。うねるように緩急自在な強弱をつけ、ある時は曖昧に漂うような、またある時は小気味よくリズミカルな旋律を奏でる。そのおんがくしつトリオが映画音楽を演奏したCD「シアトリカル」が2022年2月号の『レコード芸術』で推薦されている。クラシック系の雑誌がこういうCDにも目配りしているとは意外である。早速聴いてみると、ライブで発揮される彼らの演奏の躍動感がいくぶん弱まったような感じもするが、緻密で息の合った演奏が見事である。

 

そのおんがくしつトリオなら『木漏れ日・夢』を見事に編曲して模範演奏を聴かせてくれるに違いない。私は相変わらず苦戦している。今日の練習では時間不足でこの曲まで行き着かなかったのが幸いだ。半音階的な上昇や下降の部分ではソプラノのダブル・ホールを微妙に小指と薬指でコントロールしなければならず、正確に演奏するのは難しい。私にはほぼ不可能だ。でも、これがアルトやテナーの同様の旋律と掛け合いを聴かせるとなると簡単に引き下がる訳にも行かない。そこで問題なのは親指の不調、付け根の痛みだ。親指の運動は小指と対になることが多いとなにかで読んだ。ならば小指に過度のストレスをかけると親指に悪影響を及ぼすことだってあるかもしれない。そういう理由で演奏出来ない、いや演奏してはいけないということにして、ここはひとつ隣のTさんにお任せしよう。Tさん、済みません、冬の木漏れ日のようにほんのひと時柔らかくきらめく半音階を二人分よろしく。

 

                        漆黒に首痛むほどの冬銀河

 

2022年2月3日 自主運営団体への不安な幕開け

今日は10時から自主運営団体への移行のための懸案事項の打合せがある。三々五々、5名が集結。早速話題になったのが、異なる人生観を持つ多彩な人々からなる集団に対して最も適切に機能する自主運営の方法とは何か、ではなくて昨日の新聞で見つけたオミクロン関連実験のレポート。スパコンのシミュレーションによれば、マスクしても50センチ以内で会話すると感染のリスクが高まるという。ニコニコ顔で「50センチなんて、夫婦の間でもそんなに近づかないよね」などと話しながら、いつしかジリジリとお互いに後退して注意深くディスタンスを確保。哀しい習性が身についてしまった。もはや私たちの意識からコロナを取り去ることは不可能なのではないか。

 

調性論で名を残したマッテゾンによる3本のリコーダーのためのソナタ。構成が分かりやすく音型もバロック音楽に良くあるパターンなので順調に進む。これと逆に現代の作曲家によるリコーダー四重奏曲「木漏れ日・夢」には苦戦。複数の声部が断片的な音を奏でて、全体として一つの旋律を構成するような箇所が多く、緊密なアンサンブルが求められるが、他の声部を思いやる余裕がない。なにより練習時間が5分くらいしかないことが厳しい。分かった気分になったところで練習終了。次回はすっかり忘れてまた最初から。

4月以降は杉田劇場で全員揃って2時間の練習ができる予定だが、1時間に短縮されたコロナ禍練習にすっかり慣れてしまった老いの我が身が、ふたたび2時間の試練に耐えられるだろうか。コロナ下で心ならずも獲得してしまった安逸を追い払う気力を振り絞らなければ。                      

 

                        マンションに老聲ひとつ鬼は外  

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